イギリスはなぜ覇権を取れたのか?航海の力:イギリス帝国の海洋覇権とその歴史的影響

歴史

なぜ島国イギリスが世界の覇権を握れたのか?

あなたは覇権国という言葉を聞いたことがありますか?これは、世界の舞台で主役を務め、世界のルールを左右する影響力を持つ国のことを指します。現在、我々が認識する覇権国はアメリカですが、かつては全く違う国がこの地位を占めていました。その国こそが、19から20世紀にかけて、全世界の土地と人口の約4分の1を掌握していたイギリスです。

では、どうしてイギリスはそこまで強大になれたのでしょうか?優れた軍事力があったからでしょうか。それとも経済力、つまり大量の富があったからでしょうか。または、進んだ工業力が関係していたのでしょうか。確かに、これら全てが重要な要素ではありますが、イギリスが世界の覇権を握る一番の要因は、海運、つまり海洋物流にあったとされています。

今回の記事では、このイギリスがどのように海洋物流を利用して世界の覇権国となったのか、その決定的な要素について深掘りしていきたいと思います。

小国から大帝国へ:イギリスの驚異的な成長と海洋支配

イギリスといえば、大英帝国の名のもとに広大な植民地ネットワークを築き上げ、2度の世界大戦を勝利のもとに終えた国です。そのため、「イギリス=強大な国」というイメージを持っている方も多いかと思います。

しかし、イギリスが世界舞台に立つようになったのは、19世紀以降のこと。それ以前のイギリスは、地理的な問題をはじめとする様々な困難を抱えるヨーロッパの弱小国に過ぎませんでした。

イギリスの一番の問題点は、その地理的位置にありました。イギリスは、ヨーロッパの北西の端に位置する小さな島国で、当時栄えていた大陸側から見れば、あまり存在感がない国といえます。島国であるからには、海洋を有利に利用していたのではないかと考えがちですが、実情はそうではありません。

当時のヨーロッパの海は、2つの大きな勢力が牛耳っていました。西の大西洋は、スペインとポルトガルが独占し、北海の貿易はオランダが独占していました。陸地であるドイツにすら海上での地位を奪われ、さらには国内でも次の王位を巡る権力闘争が絶えず、国内のまとまりも外国との関係もうまく行っていませんでした。

その状況をさらに困難にした出来事が起こります。イギリスがヨーロッパ大陸に唯一持っていた領土、カレーを失ったのです。カレーは現在のフランス北部に位置する港町で、イギリスとヨーロッパ大陸、そして大陸の東西をつなぐ航路の交差点にあり、イギリスの海外進出にとって重要な拠点でした。

しかし、カレーを失ったことで、イギリスは海上の地位が不利になるだけでなく、大陸側からいつでも攻め込まれる可能性が生じたのです。

こうした危機的な状況の中で、イギリスが選んだのが周囲の海を自分たちのものにするという解決策でした。しかし、その道は容易ではありませんでした。というのも、その海を牛耳る強大な敵、スペインが立ちはだかったからです。スペインは海の覇権を握る強大な国で、その力を前に、イギリスは絶望的な状況に追い込まれました。

そんな中、イギリスに救世主が現れます。その名はエリザベス1世、イギリスの女王です。では、エリザベス1世女王はどのようにしてこの危機を乗り越えたのでしょうか?

エレザベス女王と海賊

イギリスの衰退に瀬戸際に立たされた女王、エリザベス1世は独自の戦略を練りました。イギリスの軍事力が対等に戦えるレベルにないことを認識していた彼女は、目をつけたのは、海の無法者たち、すなわち海賊たちでした。彼女の考えた策略は、女王公認の海賊大作戦という斬新なものでした。彼女は海賊たちと契約を結び、スペインの船を攻撃するよう命じました。

海賊たちは女王の許可を得て、スペイン船に対する攻撃を繰り返しました。この行為は、海賊たちにとっては自身の富を増やす機会であり、一方でスペインにとっては大きな打撃となりました。さらに、海賊たちが略奪した利益の20%はイギリスの国庫に入りました。この女王公認の海賊作戦は、スペインを弱体化させ、イギリスの経済を同時に強化するという一石二鳥の効果をもたらしました。

エリザベス女王が特に信頼を寄せていたのがフランシス・ドレーク船長でした。彼は女王の後援を受けて、約3年間にわたる長期間の略奪航海に出て、その結果得られた利益を女王に支払いました。その額はなんと国家予算を超えるものでした。

この海賊行為によってイギリスは豊かになり、海賊たちとの関係がますます強固になりました。この流れの中で、海賊出身者が正式な海軍軍人となる道が開かれました。フランシス・ドレークはその一人で、彼は爵位を授けられ、イギリス海軍の将軍となりました。

しかし、この状況はスペインにとっては許し難いものでした。スペイン国王はイギリスに対する抗議を行いましたが、これは無視されました。この結果、ついにスペインはイギリスに対する戦争を決意しました。

スペインは世界最強の海軍である無敵艦隊アルマダを派遣しました。この艦隊は約30隻から構成され、イギリスを倒すことを目指して出航しました。それに対抗するイギリス海軍はどの船でも良いと、商船までかき集めた急造の艦隊でした。

この戦いにおいて、イギリス艦隊の副司令官にはフランシス・ドレークが任命されました。ドレークはその海戦術を駆使してスペイン艦隊を撃退し、イギリスの勝利に大いに貢献しました。

しかしながら、この勝利がイギリスがスペインを圧倒する結果につながったわけではありません。当初の国力差は依然として存在し、戦争は長引きました。イギリスも多くの戦闘で損害を受け、国家財政は逼迫しました。

結局、エリザベス女王の死がきっかけとなり、戦争が終結しました。その後のロンドン条約では、海賊行為が一切禁止され、スペインは植民地貿易に力を入れて国力を回復しました。軍事力だけでは海の支配権を握ることはできないという教訓が、この戦争から得られました。

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海洋覇権への道:イギリスの航海法と三角貿易の戦略

軍事力だけでは海の支配権を握ることはできないという教訓が、この戦争から得られました。

それはイギリスの粘り強さの証明でした。転倒しても、ただの敗北として終わらせない。諦めずに新たな戦略を立てました。次なる目標はオランダでした。その時期、オランダは商業的な影響力をアメリカ大陸や東南アジアに広げていました。独占的な特産品を集め、それをヨーロッパで販売し、大きな利益を得ていました。この状況を目の当たりにしたイギリスは、オランダを貿易ネットワークから排除し、その利益を自国に流れ込ませるための新たな手段を考え出しました。

イギリスが採った方法は大きく分けて2つありました。まず一つ目は、オランダの海運業を排除するための「航海法」を制定したことです。この法律では、イギリスとの貿易にイギリス船の使用が必須とされました。当時のヨーロッパでは、オランダ船と契約し、その船で貨物を運ぶというのが主流でした。しかし、航海法の制定により、イギリスはその物流からオランダを排除することに成功しました。

しかも、これにはオランダにとって大きな問題が生じました。それは、オランダ船のサイズが小さく、長距離を移動するためには多くの港を経由する必要があったことです。オランダの貿易ルートには、イギリスの植民地が多く含まれており、これらの港が突如として使用不可能になったため、オランダの貿易ルートは大きな障害に見舞われました。この航海法によって、オランダは大きな打撃を受けることとなったのです。

さらに、イギリスが採った二つ目の策略は「三角貿易」でした。三角貿易とは、3つの地域間で行われる貿易のことを指し、特にイギリスは、自国、アフリカ大陸、そしてアメリカまたはインドの3つの地域間での貿易ルートを活用しました。

イギリスからは武器や織物などの工業製品を西アフリカへ、西アフリカからは奴隷をアメリカや西インド諸島へ、そしてその地域から原料となる作物などを積み込み、再びイギリスへと帰る。このように、積み荷がかぶらず、運ぶ先がちょうど求めているものを運べる三角貿易は、非常に効率的なビジネスモデルで、イギリスには巨額の富が流れ込む結果となりました。

大英帝国の形成:海運業の覇権と産業革命の影響

イギリスのさらなる目的が徐々に進行していました。これは、海上で徐々にイギリス船が優勢となり、かつてはオランダ船が主流だった海域を占めていったというものです。

他の国々から見れば、この変化の理由は明白でした。従来通りにオランダ船を利用していた場合、航海法によりイギリスの領土への入港が禁止される。

しかし、船の契約をイギリス船に切り替えれば、制限なく貿易を続けることが可能でした。その結果、各国でイギリス船の利用が増え、オランダ船の利用は減少しました。16世紀末から18世紀末の200年間で、イギリス船の利用は驚異の20倍以上に増え、イギリスはオランダを追い越して海運業界のトップに立ちました。

このシステムは、民間企業ではなく、国家レベルで管理されていました。つまり、イギリスは全世界の貿易を国家レベルで統制するシステムを確立し、結果として大英帝国へと成長しました。オランダを貿易戦争で破ったイギリスは、世界各地に植民地を拡大し、それらの地域を密接なネットワークでつなぎ、その利益をイギリスへと集中させました。

そして、得られた巨額の利益は、イギリスのさらなる発展のための投資に回されました。その結果、世界を変える大きな動きが起きました。それが、産業革命です。つまり、産業革命は、イギリスの広大な植民地ネットワークと貿易体制の結果として生まれました。

産業革命と言えば、蒸気機関の発明や大規模工場による大量生産のイメージが浮かびます。蒸気船や鉄道などの交通インフラも発展しました。さらに、全世界と通信するための通信インフラもこの時期に設立されました。この時代は、まさに技術が飛躍的に進歩した歴史のターニングポイントでした。

しかし、この時代のイギリスの貿易収支を見ると、驚くべきことに、ほとんど利益は出ていなかったのです。つまり、世界の貿易を支配していたにも関わらず、実際の利益はそれほど得られていなかったということです。この事実はどう解釈すべきでしょうか?

海運業の覇権:イギリス帝国の海洋支配とその影響

この状況を理解する上で重要なキーワードは「海の物流」です。実は、イギリスが力を注いでいたのは貿易そのものではなく、それを可能にする海運業だったのです。海運業とは、他の人や企業の商品を輸送し、そのサービスに対して手数料を受け取るビジネスを指します。多くの国々は、輸送コストや時間を削減するために、イギリス船と輸送契約を結び、荷物を運んでもらうことを選びました。

その理由は、イギリスが世界の重要な海上ルートを支配していたからです。例えば、アフリカの最南端に位置する喜望峰、インドの商業都市群、さらには東南アジアのマラッカ海峡など、多くの貿易船が必ず通らなければならない場所をイギリスは手中に持っていました。このような戦略的な地点を掌握しているイギリスに対し、公然と反抗する国は少なかったのです。

さらに、蒸気船の発明により、航海時間自体が大幅に短縮されました。その結果、イギリス船を利用することがより早く、より便利になったのです。このような要因が重なり、19世紀後半から海運業は飛躍的に発展しました。20世紀初頭には、世界の商船の半分以上がイギリス船によって占められていました。

そのため、イギリスが存在しなければ、世界経済自体が機能しないと言っても過言ではありませんでした。そして、世界の物流を一手に握ったイギリスは、その生命線である航路を守るための強力な海軍を持つことにより、世界を圧倒しました。「日の沈まない帝国」とも称された大英帝国の成立は、こうした一連の過程を経て実現したのです。

まとめ

海洋覇権という概念は、一見、戦略的な軍事力や地政学的な要素を強く連想させます。しかし、イギリスの例を見ると、それは単に軍事力を持つこと以上の意味を持つことがわかります。貿易、通信、物流といった経済活動を広範に統制し、世界中の人々や産業を相互に結びつけることで、イギリスは世界を形成し、その中で最も強力な立場を占めました。

その結果、イギリスは産業革命を引き起こし、世界の文化、政治、経済に多大な影響を与えることになりました。それは、日の沈まない帝国と称されるほどの強大な力を持ち、その影響は今日まで続いています。海洋覇権を持つとは、単に海を支配することではなく、全世界の貿易と交流を自らの手中に持つこと、そしてそれによって世界を形成する力を持つことを意味します。

今日のブログで、我々は海洋覇権の本質とその影響を理解するための旅をしました。それは、世界の歴史、文化、そして経済に大きな影響を及ぼす力です。そして、その力を理解することは、現代の世界を理解するための鍵となるでしょう。

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