日本人みんなに知ってほしい!!日章丸事件:すごい日本人。海賊と呼ばれた男・出光佐三

歴史

【すごい日本人の実話】海賊と呼ばれた男・出光佐三と日章丸事件
日本の歴史には、その功績と生き様で多くの人々に影響を与えた偉大な人物が数多く存在します。中でも、国内外の石油産業に革命をもたらし、日本のエネルギー危機を救った名もなき青年、出光佐三の物語は多くの人に語り継がれています。彼は単なる実業家ではなく、「海賊と呼ばれた男」としても知られ、困難を乗り越えて成功を掴みました。

この記事では、出光佐三の波乱万丈の人生と、彼が創業者となった大手石油元売り会社「出光興産」に焦点を当て、彼がどのようにして業界の常識を打破し、日本のエネルギー供給を安定させるために戦ったのかを詳しく紐解いていきます。出光佐三の勇気と情熱が生み出した奇跡の物語に、是非ご期待ください。

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面汚しを蔑まれた若き日の出光

出光佐三は、明治18年(1885年)に現在の福岡県宗像市で生まれました。彼の家族は呉服問屋を経営しており、幼少期から商売の厳しさや苦労を垣間見る機会を持って育ちました。商業の世界に早くから触れて育った彼は、商業高校を卒業後、地元福岡を離れ、神戸高等商業学校(現在の神戸大学経済学部)へと進学します。

当初、出光は将来外交官になることを夢見ていました。国のために働きたいという強い思いを持っていた彼でしたが、大学でのある出会いが彼の人生を大きく変えることとなります。それは、神戸高等商業学校の創立者であり初代校長である水島寅之助との出会いでした。

水島から「士魂商才」の理念を学んだ出光は深い感銘を受け、彼の人生の方向性は一変します。「士魂商才」とは、士人の精神と商人の才能を併せ持つことを意味する言葉であり、出光はこれに共感し、商売への興味と関心を深めていきました。

在学中には地元福岡の経済について研究し、石油というエネルギー資源が将来の日本経済にとって不可欠であるという結論に達します。この先見の明が後の彼の成功へと繋がっていくのですが、当時は石油を重要視している人はまだ少なく、彼の進路選択について周囲は驚きました。

明治42年(1909年)、神戸高等商業学校を卒業後、多くの同級生が大手企業や銀行への就職を果たす中、出光は驚くべきことに、従業員わずか3人の小さな石油商店に就職します。当時としては異例の選択であり、彼の周囲からは incomprehension や揶揄の声が上がりました。彼の級友たちは彼を「頭の面汚し」とあざ笑ったと言います。しかし、出光自身はそういった否定的な声を一切気にせず、彼にとってはこれが彼が目指すべき目標への第一歩であると信じて疑いませんでした。

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会社の設立と戦争からの再建

出光佐三は石油業界における知見を深めながら、商店で勤勉に働き続けました。彼は福岡県での幼少期を振り返り、日本経済の将来において石油が重要なエネルギー資源となることを強く確信しました。彼は、石油の利用が拡大すれば日本は大きな発展を遂げると信じ、その思いを勤勉な仕事を通じてより強くしていきました。

そんな折、出光は運命的な出会いを果たします。彼は商店での仕事の傍ら、家庭教師としてある資産家の家に通っていました。その資産家は出光の働きぶりと将来に対する洞察力ある考え方を高く評価し、彼に対して驚くべき提案を持ちかけます。それは、独立のための資金として6000円を提供するというものでした。当時の6000円は非常に大きな金額であり、出光はこのチャンスを逃してはならないと感じ、提案を受け入れて独立を決意しました。

明治44年(1911年)、25歳の出光は福岡に戻り、「出光商店」を設立します。彼は主に機械油を中心に石油製品の取り扱いを始め、彼の予測通り石油の需要は高まり、企業は急速に成長しました。従業員数は爆発的に増加し、千人を超える大企業へと成長しました。

しかし、第二次世界大戦(大東亜戦争)の勃発により、出光興産を含む多くの企業が困難な状況に直面します。従業員が戦争に徴用され、資源が不足し、使用可能なものは全て軍需に回されました。戦後、焼け野原となった日本を前に多くの企業が従業員を解雇し、事業を再建することを余儀なくされました。

しかし、出光は違いました。終戦のわずか2日後、彼は従業員たちに「愚痴はよせ!世界無比の3000年の歴史を見直せ! そして今から建設にかかれ!」言い、再建と復興への決意を新たにしました。彼は一人の従業員も解雇せず、みんなで力を合わせて再スタートを切ることを宣言しました。そして、彼の指導の下、出光はわずか2年の間に会社を再建し、再び石油事業に乗り出していきました。

日章丸事件

日章丸事件は、戦後の混乱期において、日本が石油資源の不足に苦しんでいた時期に起こりました。その頃、世界最大の石油輸出国であったイランでは、ほとんどの石油資源がイギリスのアングロイラニアン社によって管理され、独占されていました。イラン国内でさえ利益がほとんど還元されていない状態でした。

この状況に反発したイランは、アングロイラニアン社の資産の国有化を決定しました。これに対してイギリスは激怒し、中東に軍艦を派遣し、イランから石油を購入しようとする船舶を撃沈すると宣言しました。この状況下、日本はイギリスとの関係を考慮し、イランから独自に石油を購入することが困難でした。

このような状況を憂慮したのが出光興産の創業者、出光佐三でした。彼はイギリスの対応に正当性がないと考え、出光興産所有のタンカー「日章丸」をイランに派遣しました。ただし、これが国際問題に発展することを避けるため、第三国経由でイランに交渉役を送り、粘り強く交渉を行いました。最終的にイラン側は出光興産との石油取引を受け入れました。

日章丸は1953年3月23日に神戸港を極秘裏に出発し、約3週間かけてイランに到着しました。この行動は世界中で大きく報道され、日本の小さな民間企業がイギリスに立ち向かっているとして、多くの注目を集めました。

日章丸は無事に石油を積み込み、イランを出発。イギリス海軍の包囲網をくぐり抜け、日本へと帰還しました。しかし、アングロイラニアン社は積み荷の所有権を主張し、出光を提訴しました。また、イギリス政府は日本政府に対して出光に対する処分を要求しましたが、石油利権を快く思っていなかったアメリカの後ろ盾もあり、最終的には出光に対する行政処分は発せられませんでした。

この一連の出来事が「日章丸事件」と呼ばれ、出光興産はその勇気と決断力で世界を驚かせるとともに、日本国内での石油供給の安定化に貢献しました。

その後

出光興産の創業者である出光佐三氏は、日章丸事件に関する取材において、自身の行動が単なる利益追求のためではなく、横暴な国際石油カルテルに立ち向かい、消費者に安価な石油を提供するためだったと語っています。彼は54名の乗組員と日章丸を危険に晒すことなく、日本と日本国民のために命がけで世界に挑戦したのです。

出光はその後も日本国内で石油事業を発展させ、やがて「海賊」とも称されるようになりました。彼は国のために自らを犠牲にし尽力し続けました。出光が95歳で亡くなった際、昭和天皇は彼の功績を讃える御製を詠み、国中の人々が彼の存在を惜しんだと言われています。

出光佐三氏の存在がなければ、敗戦国となった日本の経済は長らく停滞していたかもしれません。彼は間違いなく日本の英雄として、その名を歴史に刻んでいます。彼の勇気と決断、そして国民への深い愛情は、今後も多くの人々に語り継がれることでしょう。出光佐三氏の偉業は、私たちが忘れてはならない日本の誇りであり、彼の精神はこれからも私たちの指針となるでしょう。

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