貴方の心が軽くなる【名著】ブッダの真理の言葉 ~あらゆる悩みを消滅させる、超・合理的な考え方~

哲学

「ブッダの真理の言葉」 – 悩みを消滅させ、心を安らぐ超・合理的な考え方

こんにちは、皆さん。今日は特別な一冊、「ブッダの真理の言葉」について紹介したいと思います。これは、ブッダの教えを凝縮した、最も有名な経典の一つです。これに興味があるのは、仏教や宗教全般に興味を持つ方だけでなく、他人の言葉や態度に敏感で、物事が思い通りにならないと不安やイライラを感じる方々にもおすすめです。また、自分の心をコントロールし、毎日を安らぎに満ちたものにしたいと願う方にも、この一冊は特に有益です。

いくつかの方々は、「私は仏教徒ではないから、ブッダの言葉は関係ない」と思うかもしれません。しかし、ブッダの教えは世界の一般教養であり、ドイツの哲学者ショーペンハウワーの思想に大きな影響を与えたとも知られています。書店に足を運べば、ブッダの本が数多く並べられているのを目の当たりにするでしょう。それは、今を生きる私たちにとって、その教えがいかに共感を呼び、支持を集めているかを物語っています。

今回、私が皆さんに紹介したい「ブッダの真理の言葉」は、ブッダの教えの真髄が詰まった最大かつ最古の教典です。その中には、心の疲れや傷を癒すような素晴らしい内容が綴られています。リラックスした気持ちで、ぜひ最後までお読みいただき、その教えを心に留めていただければと思います。

ダンマパダ ブッダ 真理の言葉 (光文社古典新訳文庫) [ 今枝由郎 ]

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仏陀について

ブッダについて簡単に紹介します。その後、私たちがこの本で特に注目する三つのテーマ、すなわち苦しみを抱える人々の特性、賢い人と愚かな人の違い、そして心を整える合理的な方法について進行していきます。さあ、始めましょう。

ブッダ、またはゴータマ・シッダールタは、紀元前5から6世紀ごろのインド北部、シャーキヤ族の王子として生まれました。日本では彼をお釈迦様と呼びますが、この呼び名には「シャーキヤ族の聖者」という尊敬の意味が込められています。シッダールタは裕福な家庭で育ち、未来の王として周囲から大きな期待を一身に背負いました。しかし、少年時代から強い宗教的関心を抱いており、出家を望んでいたとされています。

彼の出家を心配した父親は、16歳のシッダールタに美しい妃を迎え、高級な衣服や食べ物を与えて引き留めようとしました。シッダールタは一時的にその生活を受け入れましたが、ある出来事がきっかけとなり、出家を決意しました。

シッダールタは馬車で宮殿を離れ、まず東の門から出て、痩せ細った老人を目撃しました。それが老人で、人間は必ず老いてそのようになるという現実に彼は衝撃を受けました。続く日には南の門から出て、初めて病人を見つけました。それに驚いたシッダールタは再び城に引き返しました。そしてまた別の日に西の門から出て、死体を見つけました。老い、病、死、これら全ての現実を知り、彼は深く思い悩みました。

後に、シッダールタは出家者と出会い、それが出家の決意を固めたきっかけとなりました。彼は自らの髪を切り、29歳で出家しました。このエピソードは、宮殿の四つの門を通り、老人、病人、死者、出家者と出会い、修行の道を選ぶ決意を固めたという意味で、「四門出遊」と呼ばれています。

では、なぜシッダールタは生、老、病、死に対して深く悩んだのでしょうか?彼は王族としての未来を約束されていました。それを捨ててまで出家を選ぶという選択は理解し難いかもしれません。その鍵となるのは、インドに古来から伝わる輪廻の概念です。

これは、生物が何度も転生し、人だけでなく動物も含め、生き物が新たな生を受ける、または地獄に落ちるという考え方です。この輪廻思想に基づくと、生老病死は一過性の苦しみではなく、永遠に続く苦しみとなります。

そしてシッダールタは、この苦しみに満ちた輪廻から人間はどうすれば脱出できるのかと悩み続けたのです。

シダールタが修行僧となった後、彼は他の修行者達のもとで、瞑想法や苦行、断食といった修行方法を学びました。学んだ修行を忠実に実践し、自分自身を極限まで鍛え上げました。その結果、彼の身体は限界まで痩せ、目は深く落ち込み、皮膚は黒く変色しました。その姿はあまりにも痩せ細ったため、死体と間違われるほどであったと言われています。

しかし、彼がこのような厳しい苦行を6年間も行ったにも関わらず、心の解放、あるいは「悟り」と呼ばれる境地に至ることはできませんでした。シダールタは苦行に見切りをつけ、新たな道を求めることを決意します。

シダールタはまず川で体を洗い清め、その後、ガヤという街の菩提樹の下に向かいました。そして、その場所で、彼は座禅を組むことを決定しました。彼はそこでの瞑想により、心を完全に集中させ、内側へと向かいました。

それから、彼は極度の集中状態に入り、約一週間後の7日目に、ついに「悟り」を開きました。「悟り」を開くというのは、この世の真理を全て理解し、深い洞察を得た状態を指します。この状態に達した人々は、通常、「ブッダ」と呼ばれます。

ブッダが手に入れた真理とは一体何だったのでしょうか。

四諦八正道

次に紹介するのは、「四諦八正道」です。これは人間の苦悩がどのように生まれ、どのような心持ちで物事に対処すべきかを示す、仏教の基本的な教えとなります。まず、皆さんに理解していただきたいのは、「四諦」という概念です。

「四諦」は、「四」の漢数字と「諦める」という漢字からなります。この「諦める」という言葉には、一見ネガティブな印象があるかもしれません。しかし、この言葉の語源は「真理を明らかにする」という意味を持つ「明らむ」から来ています。

例えば、あなたがどうしても達成したい目標があるとしましょう。しかし、親や社会の事情など、理不尽な理由からその目標を断念しなければならなくなった場合、どうなるでしょうか。あなたは恨み、後悔、愚痴といった負の感情に悩まされるかもしれません。それに対して、その目標が達成できない理由が明確で、あなた自身が納得して断念するとしたら、状況はどう変わるでしょうか。

確かに、その時は激しく落ち込むかもしれません。しかし、自分が納得している分、悔いは残らず、次のステージに進むためのステップを踏み出しやすくなるでしょう。このように、「諦める」という言葉には物事の真理を明らかにするという意味が含まれており、実はそこまでネガティブなものではないのです。

四諦

四諦」とは、ブッダが悟りを開いたときに理解した、人間の心理と行動の4つの真理を指します。それぞれ「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」と呼ばれます。

「苦諦」は、生きることが本質的に苦しみであるという真理を指します。これは「一切苦苦(一切が苦である)」とも表現され、仏教では人間の必然的な状態と考えられています。具体的には、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことという、自分の力ではどうにもならない4つの苦しみが存在し、これらを「生老病死」と呼んでいます。

さらに、ブッダは日常経験する苦しみとして、愛する者と別れること、嫌いなものや人と出会うこと、欲しいものが手に入らないこと、肉体や精神が思うようにならない苦しみも含まれると認識しました。これらの苦しみ全てを合わせて「八苦」と呼び、この考え方は現代でも「四苦八苦」の語源となり引き続き用いられています。

では、なぜ人間はこれほど多くの苦しみを抱えているのでしょうか。ブッダはその原因を「煩悩」にあるとしました。「煩悩」とは、自分自身や自分の所有物に過度に執着する心の迷いを指します。例えば、人間は避けて通れない老いや死を経験します。しかし、常に若く、健康で、美しくありたいと執着すれば、年齢を重ねるごとに生きることが苦しくなってしまいます。

八正道

次に、ブッダが示した「煩悩を無くし、悟りを得るための8つの道」について詳しく見ていきましょう。これらは「八正道」と呼ばれ、具体的には正しい視点、思考、言葉、行動、生活、努力、心のあり方、そして瞑想という、8つの修行法を指します。これらが多くて混乱しがちですが、特に理解しておきたいのは次の2つの要点です。

1つ目は、「正しい」という言葉に含まれる意味です。この「正しい」は、主観的なものではなく、客観的で合理的、そして偏らない「正しさ」を指します。つまり、「正しさ」は固定的なものではなく、その時、その場所で何が「正しい」のかを客観的に判断しましょう、ということを意味します。

2つ目の要点は、「八正道」の根底にある「中道」の精神についてです。ブッダは、過度に快楽に走ったり、過度に苦行に走ったりする極端な生き方や考え方は、人間にとって真の利益をもたらさないと教えました。つまり、どちらにも偏らず、中道を意識し、適切で健康的な生活を送ることが、悟りを得る上で重要なこととされています。

ブッダは、自身が開いた悟りの教えを5人の修行仲間に伝え、これが仏教の始まりとなりました。その後、45年間にわたり各地で教えを説き、80歳で入滅し、涅槃に達しました。「入滅」とはブッダの死を指し、「涅槃」は煩悩が全て消え去り、全ての苦しみから解放された状態を指します。これは輪廻の連続が終わり、苦しみから脱出することを意味します。

涅槃は、サンスクリット語で「炎の消滅」を意味する「ニルヴァーナ」とも呼ばれます。つまり、煩悩の炎が消え去り、永遠の安らぎが訪れたことを表しています。

ブッダが入滅してから約400年の間に、いくつかの仏教のテキストが誕生しました。その中でも最も重要とされる二つが「ダンマパダ」と「スッタニパータ」です。これらはブッダの教えを簡潔にまとめたもので、人間が生きる上での重要な指針が示されています。

ダンマパダ

「ダンマパダ」ですが、まずはその名称の意味から理解しましょう。「ダンマ」はパーリ語で「人間の心理」を、「パダ」は「言葉」を意味します。したがって、「ダンマパダ」は一般的に「真理の言葉」と訳されます。

「真理の言葉」という表現を聞くと、一部の人々はそれが難解な内容を含んでいるのではないか、または非現実的で抽象的な話であるのではないかと感じるかもしれません。しかし、実際のところ、この「ダンマパダ」は誰でも理解できるように簡潔に書かれており、非常に合理的な教えが示されています。現代人の我々が読む際にも、その内容は自然と頭に入ってくると思われます。

苦しみがついてくる人の特徴

ここからはブッダの「心理の言葉」の内容について詳しく見ていきましょう。まず最初のテーマは「苦しみがついてくる人の特徴」です。

「心はすべての物事に先立ち、すべてを作り出し、すべてを左右します。もし人が不純な心で話し、行動するならば、その人には苦しみがついてきます。その苦しみは、荷車を引く牛の足跡についていく車輪のように、人を追いかけます。

“あの人は私を罵った、あの人は私を傷つけた、あの人は私を侮った、あの人は私から奪った”という恨みを抱く人からは、恨みは決して消えません。恨む人が他人に何をしようとも、その人自身にとって、その邪悪な心はそれ以上にひどい影響を及ぼします。

恨みは恨みによって消えるのではなく、恨みを捨てることによって消え去ります。これは普遍的な心理法則です。」

心はすべての物事に先立ち、すべてを作り出し、すべてを左右する

「心はすべての物事に先立ち、すべてを作り出し、すべてを左右する」とある通り、我々が他者に投げかける言葉や自身の行動、さらには苦悩や怒り、恨みといった感情も、全ては自分自身の心が生み出したものです。

ブッダは合理的な思考の持ち主で、全ての物事には確実に原因と結果が存在するという視点を持っていました。それは我々自身の命、財産、感情が何らかの神によって与えられたり奪われたりするのではなく、ある特定の原因が結果を生むという理解の下でありました。これは「因果」という思考法であり、ブッダが教える中でも極めて重要な原則の一つです。

そして、心が煩悩に支配されていると、その結果として怒りや恨み、嫉妬といった負の感情を抱きやすくなるのです。では、我々はどのようにして煩悩を消し去り、安らかな心を持って生きていくべきなのでしょうか。ブッダは次のように示しています。

「一切の形成されたものは無常である。明確な知識を持ち、それを見るときに、人は苦しみから遠ざかり、解放されます。これこそ、人が清らかになる道なのです。」

すなわち、「一切の形成されたものは無常である」という理解、すなわち世の中の全てが一定ではなく、絶えず変化し続けているという事実を理解することで、苦しみから距離を置き、心が安らかになる道が開かれるというわけです。これは「諸行無常」と呼ばれる原則で、仏陀が入滅する直前に語ったものとされています。

財産であろうと時間であろうと、愛情であろうと人間関係であろうと、全ては永遠にそのままであるわけではありません。お金は使うと減り、時間は年々早く過ぎ去り、愛する人も憎む人も、時間が経てばこの世から姿を消してしまいます。

人間は、現在の状態が永遠に続くと勘違いし、なぜ自分の思う通りにならないのだと疑問を持つことで、無駄な執着が生まれ、生きることが余計に苦しくなってしまいます。

ブッダはさらに次のように続けています:

「私には子がいる、私には財産がある」と思い込む者は、その思い込みにより苦悩を感じます。しかし、本当に子供や財産が自分のものと言えるのでしょうか?もし自分すら自分自身のものでないとしたら、子供や財産が自分のものだとはどういうことなのでしょうか。

要するに、人間は自分の子供や財産など、全てを自分の所有物だと思い込む傾向があります。しかしながら、この世に「これは私のものだ」と断言できるものは一つも存在しないのです。なぜなら、あなた自身ですら本当の意味で「あなたのもの」ではないからです。

これは「無我」または「無我の心理」と呼ばれる考え方で、全ての存在が互いに依存しあって成り立ち、一つのものが単独で存在することはあり得ないという教えを示しています。

例えば、目の前にあるリンゴが存在しているのは、それを作った農家や太陽や雨といった自然の恵みがあって初めて可能なのです。リンゴが自分自身の意志でそこに存在しているわけではありません。同様に、私たち人間も、親や教育、社会環境など様々な外部からの影響を受けて現在の存在を保っています。ですから、この世界には絶対的な「私」という存在も、絶対に「これは私のものだ」と言い切れる所有物も存在しないのです。

ブッダは、他人や物事に対して支配的になったり、自分の思う通りにならない現実に苛立ったり悩んだりするのは、この「無我の真理」を理解していない証拠で、それは愚かな行為だと説いたのです。

賢者と愚者の違い

次のテーマ、「賢者と愚者の違い」について考察したいと思います。

「勤め励むのは不死に至り、怠り怠ければ死に至ります。勤勉な人は決して死なず、怠ける人はすでに死者と同じです」という言葉から考察を始めます。このことから、物事に対して意欲的に取り組み、自己制御を保つ人は、困難な状況に流されずに、安定した「島」を作ることができます。しかし、怠けている人たちの中で、真に覚醒した賢者は、足の速い馬が他の馬を置き去りにするように、彼らを遠く離れます。

さらに、「わがままで節度がないことの恐ろしさを知り、努力をする人は、心の憂いを全て焼き尽くし、明るい未来へと前進する者です」と語られています。つまり、怠惰になり、ダラダラと過ごしている状態は、事実上、生きているとは言えない状態と同じで、それはすでに死んでいる状態と何も変わらないということです。

また、人は何も考えずに時間を過ごしていると、小さな問題を大きな問題と見誤ったり、解決不可能な問題に対しても解決策を探そうとし、それに悩むものです。しかしブッダはこう言います:「努力できる人は、心の憂いを全て焼き尽くし、前進することができます」。これは、真剣に努力する人は、些細なことに囚われることなく、真に重要なことに焦点を当てて生きることができるという意味です。

さらにブッダは次のように述べます:「自分が愚者であると自覚するものは、実は賢者であり、自分が賢者であると思い上がる者こそ、真の愚者である。多くを知り、問題を解決できる者が賢者なのではなく、心が穏やかで、恨みも恐れもない人こそが賢者である」。知識が豊富で学びの場が多く、忍耐強く、自己制御ができ、良い人々と親しくすることが大切だと語ります。

愚かな人々とは関わらず、もし旅をするとして、自分より優れた人や自分と同等の人に出会わない場合、単独で行動する方が良いとも述べています。自分の心が穏やかで、恨みも持たず、知恵があり、また忍耐強く、自制できる人こそが賢者であるとの考えは、簡単に言えば、自分が煩悩を持っていることを自覚し、それを克服した人々のことを意味します。

愚者

「愚者」は真理を理解していない、または自分が煩悩に囚われていることに気づいていない人、あるいは、自分が既に「賢者」であると誤って考えている人を指します。

これに対して、ブッダは賢者と交流し、愚者から距離を保つべきであると強調します。

つまり、心の平和を保つためには、日常的に平和な心を持つ人々と過ごし、自分の心が苦しむ原因となる人々から距離を取ることが重要だというわけです。

心のコントロールの難しさ

ブッダは心のコントロールの難しさとその重要性について次のように語っています。「心は揺れ動き、騒がしく、制御が難しい。だが、賢明な人は、弓職人が矢をまっすぐにするように、心を静めます。心は捉え難く、軽々と揺れ、その欲望に従って動きます。

しかし、その心を制御するのは善であり、心が制御されている状態は安らぎをもたらす」。人々はしばしば、思い出したくないことや深く考えてしまうことで、自分の心をコントロールできないと感じます。

この結果、本来集中すべき作業に集中できなかったり、寝るのに時間がかかったりすることがあります。

また、心が制御されている状態は「涅槃寂静」と呼ばれ、これは心が安らかな状態を指します。涅槃寂静への到達は容易なことではありませんが、ブッダは以下の3つの教えを理解することがその前提となると述べています。

それは「この世の全ては苦しみである(一切苦)」、「

全てのものは絶えず変化する(諸行無常)」、

そして「全ての物事はそれ自体では存在せず、関係性の中で存在している(縁起)」

という教えです。これら3つの真理を理解すれば、悟りを得て涅槃寂静に到達する道が開けるというわけです。

ここで取り上げた4つの教えは、四法印と呼ばれ、仏教の基礎となる教義として特に重視されています。

言い換えれば、ブッダは何らかの絶対的存在に救いを求めるといった神秘的な方法を提唱したわけではなく、個々人が自分の心と直接向き合い、それを制御することによって、自身の解放を実現するという現実的で実践的な道を示したのです。

では、私たちが日常生活の中で心の平穏を保つために、具体的にどのようなことを意識し、行動すれば良いのでしょうか?

心を整えるための合理的な方法

次のテーマは、心を整えるための合理的な方法についてです。始めましょう。

人が他人の過ちをつねに探し出し、常に怒りを感じていると、煩悩の汚れは増え続けます。そこでブッダは、他人の過ちを探し求めるのではなく、自分自身がしたこと、またはしなかったことに目を向けるべきだと教えています。まず、自身を調整し、正しい道に進むことから始め、その後に他人を指導するべきだと提唱しています。そして、他人を教えるように自己教育も重要だと主張しています。

確かに、他人の過ちや失敗にばかり目を向けていると、次第にその人に対する嫌悪感や憎悪が募り、自分自身の心も不安定になってしまいます。これに対して、ブッダが示す解決策は実にシンプルで、自分自身が行った行動や発言が本当に適切だったか、自分が果たすべき任務を最善に遂行したか、遂行できなかったとしたらそれはなぜなのかと、自分自身に質問を投げかけ、自己評価をすることが重要だと教えています。

さらにブッダは、無益な語句を連発するよりも、心が静まる有益な語句を一つ述べる方が優れていると語ります。また、無意味な行動を繰り返すよりも、心が安らげる行動を一つする方が価値があると主張します。そして最も重要なのは、他人に対して勝つよりも、自己の煩悩に対して勝利することで、これが真に最上の勝利者であると説いています。

要するに、無駄なことを何度も行うよりも、自分の目的に照らして有意義なことを一つ成し遂げる方が重要だとブッダは教えています。このような単純だが明快な教えから、ブッダの合理的な思考法が垣間見えます。

仕事や趣味など、多くの事に取り組むと、自分自身の努力を認識し、それによって満足感や高揚感を覚えることがあります。しかし、その感情が、目指すべき本来の目的や、より効率的な手段の存在を忘れさせる可能性もあります。また、ブッダは「自分に打ち勝つ者こそ最上の勝利者」と述べましたが、物事の勝敗についても深い洞察を示しています。勝利を収めると恨みが生まれ、敗北を味わうと苦しみに悩まされます。しかし、勝敗から離れた者こそが、安らかな境地に至るのです。

つまり、常に勝利を求め、他人より上に立ちたいというような承認欲求に囚われている状態は、恨みや嫉妬、怒り、悲しみといった感情がつきまとう状態を意味します。向上心を持つことは決して悪いことではありませんが、勝ち負けや上下といった評価基準に過度にこだわると、生活が辛くなることもあります。ブッダは、そうした勝敗や執着を捨て去り、自分の遂行すべき任務に集中することを奨励しています。その結果、安らかな境地に近づくことができると述べています。

一方で、ブッダは安らぎの境地から遠ざかる人々の特性を指摘しています。それは、恥じるべきことを恥じず、恐れるべきことを恐れず、避けるべきことを避けないという行動です。彼らは不適切な視点を持ち、負の結果に向かうと述べています。この「悪いところ」とは地獄を指しており、ブッダは真理から外れることの恐ろしさを説いています。

まとめ

先に述べた、八正道とは、煩悩を除去するための八つの道のことで、その中には「正見」という要素が含まれています。「正見」は文字通り物事を正しく見る能力を指し、具体的には、偏見や先入観を持たず、客観的かつ合理的に物事を捉えることを意味します。

しかし、人々はしばしば、自分の想像だけで善悪を判断したり、状況にふさわしくない行動をしたり、自分の都合に合わせて事実を曲げて解釈したり、証拠に基づかない行動を取る傾向があります。

ブッダはこのような自己中心的な視点を棄て、客観的で合理的な視点を持つように促しています。そのためには、自分勝手な視点を持つ人々ではなく、日々物事を正しく見ることを心掛け、善行を重ねる人々と親しくすることが重要であると言えます。そうすることで、自分が発する言葉、自分の行動、自分の習慣すべてが、より良いものへと変化していくでしょう。それによって、心の安らぎの境地に近づくことが可能になるかもしれません。

この本には、そのような目指すべき境地に到達するためのアドバイスやヒントが数多く記されています。もし興味がある方は、ぜひ手に取ってご覧になってみてください。

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