自己中こそが一番!!ウィトゲンシュタイン『語り得ぬものについては、沈黙しなければならない』

哲学
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哲学と人生の難しさへの洞察: ウィトゲンシュタインの教え

哲学に興味を持つ人々は、人生の辛さについての答えや幸せになる方法を求めていることがよくあります。この点において、オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの考え方が示唆に富んでいます。彼は、「幸福」というものが具体的にどのような状態かを定義することは困難だと指摘しました。つまり、この種の抽象的な概念は、実際には捉えどころのないものであり、その意味での「答え」は存在しないのかもしれません。

ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」と言い残しています。これは、言葉では表現できないような概念や感情について無意味に語り合うことは避けるべきだという意味です。彼によれば、私たちの痛みや喜びは、言葉の限界を超えており、他人に完全に伝えることはできないとされています。

しかし、実際の生活では、他人の解決策や体験から学ぶことが、私たち自身の問題を解決する手助けになることもあります。そうした実例を参考にしながらも、ウィトゲンシュタインの提唱する「考えるべきではないもの」と「考える価値があるもの」を見極める視点も持ち合わせておくことが大切です。

今日は、そんなウィトゲンシュタインの深い洞察に基づき、私たち自身の世界観をどのように形作るかについて考察していきましょう。

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ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの人生

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとはどんなっ人物だったのでしょう?ウィトゲンシュタインは、オーストリアの裕福な鉄工業家族に生まれ、彼の家族は「ウィトゲンシュタイン宮殿」と称される壮大な豪邸に住んでいました。彼は物質的には恵まれた環境で育ちましたが、家庭内は幸せとは言い難い状態でした。彼の8人の兄弟のうち、3人が自殺を遂げ、他の兄弟も自殺未遂を繰り返していました。ウィトゲンシュタイン自身も生涯にわたって自殺願望に悩まされていたと言われています。

学問的なキャリアを追求するため、ウィトゲンシュタインはケンブリッジ大学で哲学の研究を始め、自分の理論を「論理哲学論考」としてまとめ上げました。彼はこの論文を当時の有名な哲学者であるバートランド・ラッセルに提出し、「おそらくあなたには理解できないでしょうが、是非読んでみてください」と言って提出したとされています。この作品は、現代哲学において革命的な影響を与え、「哲学を終わらせた」と評されるほどの内容でした。ラッセル自身もウィトゲンシュタインとの知遇を「知的な冒険」と称賛しています。

哲学のすべてを解決したと考えたウィトゲンシュタインは一時期哲学を離れ、オーストリアの田舎で小学校教師として働き始めました。しかし、彼の厳しい性格は教育現場には適さず、生徒に体罰を加えたことから教師を辞めさせられることになりました。その後、大学に戻り哲学研究を再開し、「哲学は終わったと言ったのは嘘だ」と述べ、再び重要な哲学的業績を残します。

ウィトゲンシュタインは独特なキャラクターと独自の哲学的アプローチで、現代哲学に計り知れない影響を与えた人物です。彼の業績は今日でも多くの人々に読まれ、研究され続けています。

語りうることについては明瞭に語り、語り得ぬものについては沈黙しなければならない

ウィトゲンシュタインの哲学を象徴する有名な言葉には、「語りうることについては明瞭に語り、語り得ぬものについては沈黙しなければならない」というものがあります。これは彼の著作『論理哲学論考』の結論部分で述べられた言葉で、哲学的な限界と言語の限界についての洞察を表しています。

この言葉を簡単に言い換えれば、言葉で表現可能なことについてははっきりと話し合うことができるが、言葉では捉えられない事柄については、議論しても無意味であるため、それについては沈黙するべきだということです。つまり、思考可能な範囲内での議論を推奨し、それを超えた領域では無理に言葉にしようとすることは避けるべきだと説いています。

これをもう少し具体的に解説すると、私たちは何かを考える際には通常、言語を使います。例えば、「猫はなぜかわいいのか」という質問に対して、人は「気まぐれだから」、「人に懐いてくれるから」などと答えることができます。これらの答えはすべて言葉によって表現された思考の結果です。

しかし、感情の純粋な体験や直観的な知覚など、言葉にできない経験についてはどうでしょうか? たとえば、音楽を聴いたときの感動や、美術作品を見たときの感激は、完全に言葉で表現するのが難しいかもしれません。これらは言語を超えた経験であり、ウィトゲンシュタインが言う「語り得ぬもの」です。このような事象については、言葉で語り尽くすことはできず、したがって思考することも限定されるというのが彼の主張です。

幸福とは

ウィトゲンシュタインの哲学に基づいて、「どうすれば幸福になれるのか」という問いに対する答えを考えてみましょう。多くの人が幸福を「辛いことがない毎日」や「笑顔で過ごすこと」と言葉にしますが、これらは実際のところ非常に曖昧な表現です。たとえば、「笑顔が幸せ」と言う場合、それは自然な笑顔なのか、それとも作り笑いなのか?自然な笑顔とは具体的にどのような状態を指すのか、人によって解釈が異なるかもしれません。

さらに、「辛いことがない生活」というのも、何をもって辛いと感じるかは人それぞれです。したがって、これらの言葉で表現される「幸福」は、具体的な内容が不明確であり、その意味するところを完全に理解することは困難です。ウィトゲンシュタインは、言語で表現できない、思考できないような抽象的な概念は「語り得ぬもの」として扱い、これについては沈黙するべきだと主張しました。

彼は、言葉で明確に表現できる事実や問題についてのみ議論する価値があると見なしています。これらは「語りうるもの」として、具体的な議論や思考が可能です。しかし、「幸福」という概念はその曖昧さゆえに、語りうる範囲からは外れる可能性があります。

このように、ウィトゲンシュタインのアプローチは、私たちがどのように思考し、どのように言語を使用すべきかについて深い洞察を提供します。語り得ぬものについては沈黙を守り、語りうるものに対しては明確かつ具体的に思考し、議論することが求められます。この区別を理解することが、より有意義な対話と知的探求へとつながるのです。

語りえぬもの

ウィトゲンシュタインの哲学における「語り得ぬもの」に関する考え方は、「自分の生きる意味」といった問いにも適用されます。このような問いは、しばしば哲学的な議論の中で提起されますが、実際には言葉で表現するのが困難な概念です。

ウィトゲンシュタインは、自分の存在目的や生きる意味についての問いが無意味であると考えました。なぜなら、そのような問いは外部の何かが決定するものであり、自己そのものは対象として成立しないからです。例えば、りんごに「私は何のために存在するのか」という問いを投げかけることはナンセンスです。なぜなら、りんごが何のために存在するかは、それを利用する側が決めることであり、りんご自体には意識がないからです。

このように、「私は何のために生きているのか」という問いは、それを問う者自身が外部からの目的や意味を求めているに過ぎないと言えます。これはウィトゲンシュタインが言う「言葉として成立していない意味不明な文章」ということになります。つまり、自分自身の存在意義や目的を外部から定義しようとする試みは、言語的にも哲学的にも無効であるとされます。

同様に、「神は存在するか」「愛とは何か」「善と悪の境界はどこにあるか」といった哲学的な問いも、具体的な事実の積み重ねで証明することはできません。これらは個々人の経験や信念に基づく抽象的な概念であり、一人ひとりの解釈が異なるため、明確な定義や言語化が困難です。ウィトゲンシュタインによれば、これらの問いは「語り得ないもの」として扱われるべきであり、無意味な議論に時間を費やすよりも、語り得る事実に基づく思考に集中すべきだとされています。

ウィトゲンシュタインの哲学

ウィトゲンシュタインの哲学的アプローチは、事実に基づく具体的な問題の解決に焦点を当てることをとしています。彼は、言語が事実に対応しなければならないと主張し、それが可能な範囲でのみ有効な議論や思考が行えると考えました。

例えば、「朝起きるのが辛い」という具体的な問題については、解決策を考えることができます。これは睡眠環境の改善や生活習慣の調整など、具体的な対策を講じることが可能です。

一方で、「幸福」という概念は非常に抽象的で、個々人の感じ方や定義が異なるため、一様に言語化することが困難です。同様に、「モテたい」という願望も、誰にモテたいのかという具体的な対象が定まらない限り、具体的な答えを出すことはできません。ウィトゲンシュタインは、このような具体性を欠く概念については言語での表現が不適切であるとし、事実に基づかない話題については言及すべきでないと断言しました。

この哲学的立場は、哲学を「語り得ないものについては沈黙すべき」という方向に導きました。ウィトゲンシュタインは、このようにして自らの先行する哲学の枠組みを根本から覆し、新たな哲学的視点を確立しました。彼の考えは、現代哲学において重要な影響を与え、具体的な事実に基づく議論の重要性を強調し続けています。

ウィトゲンシュタインの後期哲学

ウィトゲンシュタインの後期哲学では、人間の内的感覚や感情に関する言語の限界について深く掘り下げています。彼は「他者の痛みは実在する証明すらできない」と述べ、これは自分の内的感覚を言葉で表現することの難しさを指摘しています。他者の感情や苦しみなどの内的な感覚は、言葉の限界を超えており、それを他人が完全に理解することはできないという考えです。

例えば、誰かが「足が痛い」と言ったとします。私たちは自分が経験した痛みを基にして、その人の痛みを想像しますが、実際にはその人が感じている痛みの質や程度を正確に知ることはできません。人によって痛みの感じ方は異なり、言葉で「痛い」と表現されても、それがどの程度の痛みなのかは個人の感覚によって大きく変わるため、一般的な事実として捉えることは困難です。

同様に、「寂しい」という感情も、人によって感じ方が異なります。一人でいることが寂しいと感じる人もいれば、人が多い中で孤独を感じる人もいます。このように寂しさという感覚自体を言葉で表現することはできず、それが具体的な事実として共有されることもありません。この点で、寂しさは言語で表現できる範囲を超えた個人の内面的な感覚になります。

ウィトゲンシュタインは、このように人の感覚や感情は言葉で伝えることができないと断言します。例えば、営業職が辛いと感じる人がいるとしても、その「辛い」という感覚が他の人にとって同じ意味を持つとは限りません。つまり、他人の体験や感覚は私たちとは全く異なる可能性があり、その体験を完全に共有することはできないのです。

この考えは、言語の機能と限界を理解し、それによって人間のコミュニケーションや哲学的探求における深い洞察を提供します。それはまた、私たちが他人の感覚や感情に対してどのように接するべきか、そしてどのように理解を深めるべきかについても示唆を与えています。

自分こそすべて

ウィトゲンシュタインは、私たちの認識や感覚が個々の世界観を形成するという考えを持っていました。彼の哲学では、主観的な体験こそが現実の全てであると言っています。「この世界ってのはさ、私の認識こそが全てなんだよ」という彼の言葉は、主観性がすべてだと言っています。つまり、他人がどう見ているかではなく、自分がどう感じているかが、その人の「世界」全体を定義しているということです。

この見解は、他人の苦しみや楽しみが外部からどう評価されるかということは重要ではなく、その人自身がどう感じているかが最も重要であるという点を強調しています。たとえば、他人から見れば苦しそうに見える状況でも、本人がそれを快適だと感じていれば、それがその人にとっての真実です。これにより、ウィトゲンシュタインは、各個人が自己の体験を基に世界を解釈することの重要性を説いています。

さらに、ウィトゲンシュタインは「私が何かの素晴らしさをいくら伝えようと、私の心の体験を他者に伝えることはできない」とも述べています。これは彼の言語の限界に関する考えを反映しており、個人の内的体験や感覚は他人と完全に共有することができないということを意味しています。言葉は経験を伝達するツールとして有用ですが、それには限界があり、完全な体験の伝達は不可能だとウィトゲンシュタインは指摘しています。

このように、ウィトゲンシュタインの哲学は、私たちがどのように世界を認識し、解釈するかに焦点を当て、個々の主観性の重要性を強調することで、哲学的な探求を深めます。また、他人の体験を理解しようとする試みには限界があることを認識することで、私たちのコミュニケーションや人間関係においてもより注意深くなるべきだと教えています。

終わりに

今回のブログで取り上げたのは、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「私こそが世界の全て」という考え方です。私たちは他人の感覚を完全に理解することはできません。たとえば、友人が「美味しい」と言う時、その「美味しい」がどのような感覚なのか、私たちは正確には知ることができません。同じように、他人が「辛い」とか「寂しい」と感じている時、その感情の実際を理解するのは非常に難しいです。

このように、他人の感覚や感情を完全には理解できないため、ウィトゲンシュタインは自分の感性を大切にすることを勧めます。なぜなら、私たちが感じる世界、つまり「私の世界」こそが、この広い宇宙の中で私たちが真に認識できる唯一の世界だからです。

ウィトゲンシュタインの哲学は非常に深く、理解するのが難しい部分も多いです。このブログで紹介した内容には誤解や間違いが含まれているかもしれませんが、彼の思想が持つ深い洞察を少しでも感じていただければ幸いです。人それぞれが世界をどう捉えるか、そしてその理解がいかに主観的であるかを考えるきっかけになればと思います。

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