
美しい自然と「国民総幸福(GNH)」で知られるブータン。しかしその裏では、かつて極度の食糧不足と農業の困難に悩まされていた時代がありました。
険しい山岳地帯に囲まれたこの小国では、平地は全体のわずか1割。土地は痩せており、農業には決して恵まれた環境ではありません。60%程度の自給率に留まり、国民の多くは満足に食べ物すら手に入れられず、貧困に苦しんでいました。
そんなブータンに1964年、ひとりの日本人青年が降り立ちます。名前は西岡京治(にしおか・けいじ)。農業の専門家として派遣された彼は、現地で強い反発と偏見にさらされながらも、ひたすら「ブータンの農業を豊かにしたい」という一心で奮闘を続けました。
この記事では、国からも土地からも歓迎されなかった西岡京治が、どうやってブータンの農業を変え、村を変え、国の未来に希望の種をまいたのか。その感動的な実話をたどります。

🔹背景:農業に不向きな国土、深刻な食料事情
ブータン王国は、南アジアのヒマラヤ山脈に位置する人口90万人ほどの小さな内陸国です。インドと中国という大国に挟まれた地理的特徴を持ち、その国土のほとんどは急峻な山岳地帯で構成されています。
南部の標高100メートルから、北部の7,000メートルを超える高地まで、高低差が非常に激しく、平坦で農耕に適した土地は全体のわずか10%程度に過ぎません。この厳しい地形条件に加え、気候も地域によって大きく異なり、時に農作物の育成を難しくする要因となっていました。
こうした環境の影響により、当時のブータンでは食料の自給率はわずか60%程度にとどまり、多くの国民は慢性的な食糧不足と貧困に苦しんでいたのです。農業を主要な産業とする国でありながら、効率的な耕作が難しく、生産性の向上も進まない状況にありました。
このような中、「農業の近代化」は国家的な急務とされており、外部からの技術協力が強く求められていたのです。
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🔹日本人・西岡京治の登場:異国の地で信頼をつかむまで
1964年、日本からひとりの青年がブータンの地に降り立ちました。名前は西岡京治(にしおか・けいじ)。大阪府立大学農学部で植物学を学び、教育者としても活動していた彼は、恩師である中尾教授の強い推薦を受け、ブータン政府の要請に応える形で派遣されたのです。
ブータンは当時、農業・医療・教育といった基盤整備の多くをインドの協力に頼っていました。そんな中、突然現れた「日本人農業専門家」に対し、現地のインド人スタッフは冷ややかな反応を見せます。「日本人に何が分かる」「農地は貸せない」と、あからさまな反発を受け、西岡はスタートラインにすら立たせてもらえない状況に置かれました。
それでも彼はあきらめませんでした。持ち前の誠実さと粘り強さで、政府に何度も交渉を重ね、ついに200㎡という小さな農地を借り受けることに成功します。
西岡がまず取り組んだのは、日本から持ち込んだ大根の種の栽培でした。彼はブータンの気候と土壌に適した作物として、大根を選びました。気温差が大きい地域では、大根はよく育つ。彼はそれを信じ、耕し方から種の蒔き方、土のかけ方に至るまで、地元の少年実習生たちに一つひとつ丁寧に教えながら栽培を始めました。
3ヶ月後、大根は見事に育ちました。それはブータンの人々が見たこともないような、立派で大きな大根だったのです。その成果は瞬く間に近隣に知れ渡り、西岡の農場には噂を聞きつけた人々が次々と訪れるようになりました。
「どうやって育てたのか」「種を分けてほしい」――それまで誰にも見向きされなかった日本人に、人々は関心と尊敬のまなざしを向け始めます。
こうして西岡京治は、ブータンの地で少しずつ信頼を獲得し、「農業の奇跡」の第一歩を踏み出したのでした。
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🔹農業改革と広がる信頼:一粒の種から、国を動かす波へ
西岡京治が育てた大根の成功は、単なる「作物の収穫」にとどまらない、大きな転機となりました。見たこともないほど立派に育ったその大根は、口コミで近隣の村々へと話題が広がり、「日本人が不毛の土地で奇跡の野菜を育てた」という噂が、人から人へと語り継がれるようになったのです。
この成功をきっかけに、西岡は次なる挑戦として、トマトやキャベツなどの栽培にも取り組みます。品種や栽培方法はすべて、日本の経験を応用しながら、ブータンの気候・土壌に合わせて改良されたものでした。実習生たちも技術を習得し始め、野菜の種類と質が徐々に広がっていきます。
そのうち、西岡の農園には地方の農民だけでなく、知事や国会議員、政府関係者までが視察に訪れるようになりました。野菜を見た者たちは皆、目を丸くし、「この農法を自分の村でも導入できないか」と本気で考え始めたのです。
この評判はついに、ブータンの第3代国王ジグメ・ドルジ・ワンチュクの耳にも届きます。近代国家の礎を築いたこの国王は、鎖国政策を見直し、ブータンの近代化に強い意欲を持っていた人物でした。そんな国王自らが、西岡に対して「試験農場の設立と運営を任せたい」と声をかけたのです。
こうして、西岡に託されたのが、ブータン初の本格的な試験農場――「パロ農場」です。その広さは、それまでの農地の約400倍にもなる7.6ヘクタールという大規模なものでした。
パロ農場は単なる畑ではなく、農業教育の拠点としての役割も担っていました。西岡は、各地から若い実習生を受け入れ、種まきから収穫、農具の使い方に至るまで一貫して教育。また、農機具の貸し出し制度を整え、貧しい農家でも作業を始められるよう支援しました。
さらには、市場での野菜販売にも取り組み、農業を通じて収入を得る仕組みも構築。パロで育てた野菜をトラックに積んで中央市場に出すと、3時間で完売するほどの人気を博しました。
こうして、西岡の地道な努力は「農業=貧しさ」というイメージを覆し、「農業=希望と収入源」という価値観へと変えていったのです。そして、彼の姿勢に共鳴した農民たちが次々と協力し始め、ブータンの農業改革は国全体へと広がっていきました。
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🔹第二の挑戦:貧困地帯シェムガン県での闘い
西岡京治が手がけたパロ農場の成功は、ブータン全土に希望の種をまきました。そんな中、国王から新たに託された使命は、ブータン南部の最貧地帯・シェムガン県の再生でした。
シェムガン県は、山岳地帯の中でもとりわけ辺境にあり、中央政府からもほとんど顧みられることのなかった「忘れられた地域」と呼ばれていました。そこに暮らす人々の多くは、焼畑農業に頼った不安定な生活を続け、定住もままならず、栄養や教育、医療といった基礎的な生活環境さえ整っていませんでした。
西岡は、そんな土地に入り、まずは水田の開拓による定住農業の導入を提案します。ところが、住民たちの反応は冷ややかでした。
「水田を作ったら土地を国に奪われるのではないか」
「どうせ自分たちには関係のないプロジェクトだろう」
疑念と不信が村全体に広がり、協力どころか、会話すらままならない状況だったのです。
しかし、西岡は決して諦めませんでした。彼は村人ひとり一人と向き合い、繰り返し繰り返し話し合いを重ねました。その数は、実に800回以上にものぼります。ときに村の集会所で、ときに畑の片隅で、そして雨の中でも、西岡は忍耐強く村人の心に語りかけ続けたのです。
少しずつ、彼の誠実さと本気の想いが伝わり、協力者が現れ始めます。若者たちは研修のためにパロ農場へ派遣され、野菜栽培の技術と農業の可能性を学びました。「自分たちの村も変えられる」と気づいた彼らは、帰郷後に率先して仲間を説得し、プロジェクトはようやく動き出したのです。
そして数年後――
**シェムガンには60ヘクタールにもおよぶ水田が整備され、畑では多種多様な野菜や果物が実るようになりました。**かつて定住できなかった土地には、3万人を超える人々が暮らす新たな村が生まれ、学校や診療所、農道や水路までもが整備されました。
もはやそれは、単なる農業支援の域を超えた**地域全体の「未来づくり」**だったのです。
かつて「誰が来ても変わらない」と言われた最貧地帯を、根本から生まれ変わらせたこの奇跡は、ブータン国民にとっての大きな希望となり、西岡京治の名を「農業の父」として国の歴史に深く刻むことになったのです。
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🔹晩年と功績:人生を懸けた奉仕と、国を挙げた感謝
西岡京治は、派遣当初の2年の任期をはるかに超え、最終的に16年間という長きにわたってブータンに滞在し、そのすべてを農業の発展と人々の暮らしの向上に捧げました。
彼の指導のもと、多くの村が変わり、貧困に苦しんでいた人々の暮らしが改善され、農業は単なる生存手段から「地域の希望」へと姿を変えていきました。
その多大な貢献が認められ、西岡はブータン国王より「タシ」という称号を授与されます。
これはブータン語で「最も優れた人」「最上の存在」という意味を持ち、通常は王族や最高裁判所の判事など、ごく限られた人間にしか与えられない国家最高位の勲章の一つです。
1992年、西岡は体調を崩し、帰国を目前にしてブータン・パロにて静かにこの世を去りました。享年59歳でした。
その訃報を受けたブータン政府は、彼のために国葬を執り行うことを即決。葬儀には5000人以上の市民が参列し、王族や政府要人も深い哀悼の意を捧げました。40人以上の僧侶による読経が、かつて彼が開拓した畑のあるパロの谷に響き渡ったといいます。
西岡京治というひとりの日本人の生涯は、遠い異国の地で「国民の父」として刻まれることになったのです。
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🔹その後と絆:西岡の遺産が結ぶ、国を超えた友情
西岡の死から約20年後の2011年。ブータン第5代国王ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク陛下が、結婚後初の公式外遊として日本を訪問しました。
その際、国王は次のような言葉を残しました。
「我々ブータン国民にとって、日本は単なる友好国ではありません。
日本の皆さんを“親愛なる兄弟姉妹”だと、心から思ってきました。」
この発言には、西岡京治が残した絆への深い敬意と感謝が込められていると、当時多くのメディアや関係者が感じ取りました。
実際、西岡の足跡は今なお、ブータンの農業教育・地域振興の現場に息づいています。彼が設立した農場は地元の人々の手で受け継がれ、彼の教えを学んだ農民たちは、今も自らの土地で汗を流しながら、よりよい未来を次の世代へとつないでいます。
西岡が残したのは作物の種だけではありませんでした。
**信頼、誠実さ、そして「他者のために尽くす精神」**という、日本人の美徳そのものが、彼の人生を通してブータンという国に深く根づいたのです。
それはまさに、「国を超えた友情」の象徴。
西岡京治の物語は、今も静かに、しかし確かに、日本とブータンの間に変わることのない温かい架け橋をかけ続けています。
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🏔️【おわりに】一粒の種が、国の未来を育てた
西岡京治というひとりの日本人が、遠く離れたブータンの山奥に降り立ち、汗を流し、土を耕し、人の心を耕した16年間――。
決して特別な力を持っていたわけではありません。ただ、誠実であり続けたこと、諦めずに続けたこと、そして何より「人の幸せ」を自分ごとのように願い続けたことが、彼を「ブータン農業の父」と呼ばせたのでしょう。
小さな大根の種から始まった物語は、やがて学校や診療所、定住の村、そして国の誇りへと広がりました。西岡が蒔いたのは、作物の種であると同時に、希望と信頼の種だったのです。
日本とブータン――。国も文化も違う者同士が、本当の意味で「兄弟姉妹」として結ばれた背景には、確かに西岡京治という存在がありました。
今、私たちがこの物語から学ぶべきことは、「遠くの誰かのためにできることは、意外と身近なところにある」ということかもしれません。
そして、たった一人の行動が、国をも動かす力を持つということを、彼の人生が教えてくれています。
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