なぜロシアは“攻める国”になったのか?侵略され続けた歴史から見る本当の姿

歴史

ロシアと聞くと、「強い国」「攻撃的」「怖い国」というイメージを持っている人も多いかもしれません。でも実は、ロシアは何度も他国からの侵略を受け、苦しい歴史を歩んできた国でもあるのです。

たとえば、13世紀にはモンゴル帝国に征服され、なんと約240年間も支配されていました。その後もナポレオン軍やナチス・ドイツの大軍に襲われ、ロシアは国の命運をかけた戦いを繰り返してきました。

この記事では、「なぜロシアはこんなにも“侵略されてきた”のか?」「その経験が今のロシアの外交や行動にどう影響しているのか?」を、やさしく分かりやすく解説します。歴史を知ると、ニュースで見かける“今のロシア”が少し違って見えてくるかもしれません。

1. ロシア語に“安全”という言葉がないって本当?

実はロシア語には、日本語の「安全」や英語の「セキュリティ」のような、ポジティブな意味で“安全そのもの”を表す単語がありません。

ロシア語で「安全」と言いたいときは、「危険ではない(нe oпacнo=ネ・オパースナ)」というように、否定の形でしか表せないのです。

これはちょっと不思議に感じるかもしれませんが、ロシアが長い歴史の中で何度も侵略や戦争を経験してきたことと深く関係しています。

つまり、「まったく危険のない、完全に安心できる状態」というものを、ロシアの人々はあまり経験してこなかった。だからこそ、「危険がない=とりあえず大丈夫」というような、“安心”の定義そのものが違う文化になっていったとも言えるのです。

言葉はその国の歴史や生き方を映し出す鏡です。この「安全=危険ではない」という表現ひとつからも、ロシアがどれほど“外の脅威”にさらされてきた国なのかが見えてきます。

2. モンゴル帝国による支配(13世紀)

13世紀、今のロシアの土地は、モンゴル帝国によって大きな被害を受けました
当時のモンゴルは、世界最大級の軍事力を持ち、ユーラシア大陸(ヨーロッパとアジアをまたぐ広大な土地)を支配しようとしていました。

その一環として、1236年にロシアへ侵攻
首都だったキエフや、現在の首都モスクワを含む多くの都市が次々に襲撃され、街は焼き払われ、人々は殺されるなど、壊滅的なダメージを受けました。

こうしてロシアの広大な土地は、約240年ものあいだモンゴル帝国の支配下に置かれることになります。
この長い支配の中で、ロシアは自分たちで国を動かすことができず、税金もモンゴルに納めるなど、完全に従属する立場にありました。

しかしそんな厳しい時代に、モスクワの人々は生き残るために工夫をします。
モンゴルにうまく取り入り、「忠実な協力者」としてふるまうことで、ほかの地域よりも優遇され、徐々に力をつけていきました

そして最終的に、モスクワはモンゴルから独立する戦いの中心地となり、やがてロシアの新たなリーダー的存在となっていきます。
今のロシアの首都がモスクワであるのも、この歴史の流れと深く関係しているのです。

3. ナポレオン戦争(1812年)

1812年、フランスの皇帝ナポレオンは、ヨーロッパの大半を支配していましたが、ロシアだけは屈服させることができずにいました
そこで彼は、50万人以上の大軍を率いてロシアに侵攻します。これが「ナポレオン戦争」と呼ばれる大きな戦争の一つです。

フランス軍は驚くほどのスピードでロシア領内を進み、ついにロシアの中心都市モスクワを占領します。
当時のロシアの首都はサンクトペテルブルクでしたが、モスクワも非常に重要な都市でした。

しかし、ロシア軍はここである大胆な作戦を決行します。
それが「焦土(しょうど)作戦」と呼ばれる戦術です。
これは、敵に街を奪われるくらいなら、自分たちで町や物資を焼き払ってから撤退するという、極端だけれど効果的な方法です。

その結果、ナポレオン軍はモスクワを占領したものの、食べ物も住む場所もない廃墟しか残っていませんでした
さらに追い打ちをかけたのが、ロシアの厳しい冬です。気温はマイナス20度〜30度に達し、フランス兵たちは寒さと飢えでどんどん倒れていきました。

補給路も絶たれ、兵士たちはほとんど戦えない状態に。
こうして、当初50万人以上いたナポレオン軍のうち、生きて帰れたのはたったの2万人ほどだったといわれています。

ロシアは大きな被害を受けながらもこの侵略に耐え抜き、**「どんなに強大な敵にも決して屈しない国」**というイメージを国内外に強く残すことになりました。

4. ロシア革命と内戦(1917年〜)

1917年、ロシアで世界で初めての社会主義革命が起こりました。
これは、皇帝(ツァーリ)が支配するこれまでの政治を壊し、貧しい人たちが中心の新しい社会を作ろうとする動きでした。

しかし、この急激な変化は国内に大きな混乱をもたらします。
皇帝を支持する人たち(白軍)と、革命を進める人たち(赤軍)が国中で激しく戦い、内戦状態になります。

さらに、その混乱に乗じて外国の軍隊までもがロシアに干渉してきます。
実は、日本もこの時「シベリア出兵」としてロシアに軍を送り込んでいました。

この内戦では、戦闘だけでなく、寒さや食糧不足などが重なって多くの人々が亡くなりました。
首都サンクトペテルブルクは無法地帯となり、街から人がいなくなるほどの荒廃ぶりでした。

そんな絶望的な状況の中で、ロシアはなんとか立て直しを図り、
1922年、ついに「ソビエト連邦(ソ連)」という新しい国家が誕生します。

この国は「労働者が主役の社会」を理想とする社会主義の国で、
その後、世界でもアメリカと並ぶほどの超大国へと成長していくことになります。

5. 第二次世界大戦と「大祖国戦争」(1941年〜1945年)

1941年、ナチス・ドイツが突然ロシア(当時はソビエト連邦)を攻撃してきました。
ロシアとドイツはもともと「戦わない約束(不可侵条約)」をしていたため、これはまさに**奇襲(だまし討ち)**でした。

ドイツ軍は一気にロシアの奥深くまで攻め込み、
モスクワに次ぐ大都市「サンクトペテルブルク(当時レニングラード)」を2年半も包囲します。

街の外からは逃げられず、食べ物も届かない。
街の中に閉じ込められた人々は、極寒と飢え、爆撃の恐怖の中で必死に生き抜こうとしました。

それでもこの都市は、市民たちの驚くほどの努力と工夫によって守られました。
たとえば、敵の爆撃機に都市を「ただの廃墟」に見せかけるため、建物を布やネットでカモフラージュしたのです。
この作戦には、画家や建築家など、芸術の力も使われました。

その結果、ドイツ軍はついにこの町を落とすことができず、
市民たちは自分たちの手で街を守りきったのです。

この戦争でロシア(ソ連)は2700万人もの死者を出しました。
これは国民の10%以上にあたる人数です。
世界中を見渡しても、ここまでの犠牲を出した国は他にありません。

この出来事は、ロシアでは今でも「大祖国戦争」と呼ばれ、
「絶対に忘れてはいけない歴史」として語り継がれています。

6. 冷戦と核戦争の危機

第二次世界大戦が終わったあと、今度は「冷戦(れいせん)」と呼ばれる武器を使わない“にらみ合い”の時代がやってきます。

この冷戦では、アメリカを中心とする**「西側の国々(NATO)」と、ソ連を中心とする「東側の国々(WTO)」**が激しく対立しました。

特にお互いが**核兵器(かくへいき)を持っていたため、いつ戦争が起きても「地球が滅びるかもしれない」**という緊張状態が何十年も続いたのです。

中でももっとも危険だったのが、**1962年の「キューバ危機」**です。
ソ連がアメリカのすぐ近くにあるキューバに、核ミサイル基地を作ろうとしたことが発覚しました。
これに怒ったアメリカは、海を封鎖し、ソ連の軍艦とにらみ合いに。
あと一歩間違えれば、本当に核戦争が始まるところだったのです。

その後も冷戦は続きましたが、ついに1991年にソ連が崩壊し、
東側のグループ(WTO)は解体されました。

しかし、それで平和になるかと思いきや、NATOはそのまま残り、しかも東へ拡大していったのです。
旧ソ連の周辺国の多くがNATOに加盟し、ロシアのすぐそばまで「西側の軍事同盟」が近づいてきました

この状況は、ロシアから見れば「自分たちを包囲しに来ているように感じる」のです。
これが後のウクライナ問題にもつながっていきます。

7. 現代への影響とウクライナ侵攻(2022年)

冷戦が終わってからも、アメリカを中心としたNATO(北大西洋条約機構)は解体されず、
むしろ旧ソ連の周辺国を次々に仲間に加えていきました

ロシアにとって、これは大きな不安の原因となります。
「昔ソ連だった国まで、アメリカ側になってしまうのか?」「このままでは自分たちの周りがすべて敵になるかもしれない」
――そんな孤立感と危機感が、ロシア国内で高まっていったのです。

そして、特に重要なのがウクライナです。
ウクライナはロシアにとって「兄弟のような存在」であり、文化・歴史・民族的にも深い関係があります。
そのウクライナが「NATOに入りたい」と表明したことで、ロシアは強く反発しました。

まず2014年、ロシアはウクライナ南部のクリミア半島を一方的に自国のものにしてしまいます
そして2022年、ついにロシアはウクライナ全土に対して**軍事侵攻(武力による攻撃)**を開始しました。

ロシアはこの行動を「自国の安全を守るため」と説明していますが、
実際には多くの国から非難を浴び、経済制裁(けいざいせいさい)や国際的な孤立を招くことになりました。

つまり、安全を守るために始めた戦争が、逆にロシアをさらに危険な立場に追い込んでしまったのです。

このように、ロシアの現在の外交や軍事行動の背景には、過去の侵略の歴史や孤立への不安が深く関係していることがわかります。

🔚 おわりに:ロシアの行動には「理由」がある

ロシアの外交や軍事行動は、私たちから見ると「強引」「攻撃的」に見えるかもしれません。
でもその背景には、何度も侵略され、国を守ることに必死だった歴史があります。

モンゴル帝国に始まり、ナポレオン、ナチス・ドイツ、冷戦時代の包囲網――
ロシアはずっと「外から攻められる恐怖」と向き合ってきました。

だからこそ、今でも「国を守らなければ」という意識がとても強く、
その結果として、先に動いて相手をけん制しようとする行動にもつながっているのです。

もちろん、戦争や侵略が正当化されるわけではありません。
ですが、なぜそんな行動をとってしまうのかを知ることは、とても大切です。

歴史を学ぶことで、世界の動きの裏側にある「理由」や「不安」が見えてきます。
それが、ニュースを“知る”から“理解する”へと変わる第一歩かもしれません。


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