朱子学とは – 江戸時代の日本社会におけるその影響と意義

哲学

私たちの生活には多くの規則や上下関係が存在します。もし突然、これらの規則が厳格に強制され、違反者には罰が与えられると国から宣言されたら、我々はどう反応するでしょうか。多くの人が恐怖を感じるでしょう。それは、一見、現代社会からはかけ離れた厳格な状況のように思えますが、これは実は遠い国の話ではなく、日本の江戸時代に存在した身分制度の一部です。

この身分制度を含むさまざまな規則や決まり事は、ある学問の影響を大いに受けています。それが中国から伝わった朱子学です。朱子学は、日本における主に支配者層によって受け入れられ、社会のあり方に大きな影響を与えてきました。

では、なぜ日本で中国のこの学問が受け入れられたのでしょうか。そして朱子学の内容とは一体何なのでしょうか。今回の記事では、この朱子学について詳しく解説し、その影響と意義を明らかにします。記事の最後までお付き合いいただければ、現代の世の中の仕組みがどのように形成されたのか、その理解が深まることでしょう。

その後、朱子学の主な教義とその影響について、例を挙げながら詳しく説明します。朱子学の理念がどのようにして日本の社会、特に江戸時代の身分制度に影響を及ぼしたのか、その過程を追っていきます。そして、朱子学が日本の社会にどのような影響を与え、現代社会にどのように影響を及ぼしているのかを明らかにします。

朱子学の成立とその影響 – 中国と日本の社会に与えた意義とは

朱子学は、中国の宋時代に、儒学者であった朱熹によって確立された学問です。朱熹は儒教の「論語」などの古典を熱心に研究し、それに自らの解釈を加えることで、新しい学派を創設しました。この新学派こそが朱子学で、儒教の学派の一つと位置づけられています。

朱熹は19歳という若さで科挙試験に合格し、地方の官職に任命されました。科挙試験は、日本でいう国家公務員試験のような、非常に難関な試験です。その後、彼の才能は皇帝の側近にまで認められ、そのアドバイザーとして引き抜かれました。

しかしながら、朱熹の儒学の解釈や活躍は、一部の政治家たちから反感を買い、結果的に彼は地位を追われてしまいます。その結果、朱子学は偽の学問として攻撃され、朱熹自身も迫害の対象となりました。朱熹はそのような困難な状況の中で71歳で亡くなったと伝えられています。

しかし、朱熹の死後、理宗皇帝の時代になると、朱子学は再評価されるようになります。理宗皇帝自身が朱子学に興味を持ち、熱心に研究した結果、朱熹とその学問は尊敬の対象とされるようになりました。そして、13世紀の半ばには朱子学は科挙試験に採用され、明時代には国家認定の学問として中国全土で広く学ばれるようになりました。

しかし、その後の時代になると、科挙試験に合格するためだけに朱子学を学ぶという風潮が生まれ、学問としての本来の目的を見失う傾向が出てきました。この風潮は、成績の良い者が優遇される学歴社会を生む原因となりました。

さらに、朱子学の教えは、統治者たちにとって都合の良いものであったため、統治の道具として利用されるようになりました。古来、中国社会は多様な思想や学説が受け入れられ、それによって社会が発展してきました。しかし、朱子学が広まるにつれ、その他の学問や思想が排除され、思想の一元化が進んでいきました。これは、中国社会における思想と学問の多様性を大きく損なう結果となりました。

このように、中国社会に多大な影響を与えた朱子学ですが、その内容は、それまで中国社会に浸透していた儒教とは一部異なっています。次のセクションでは、その違いを含めて朱子学の具体的な内容について詳しく見ていきましょう。

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朱子学

儒教では、仁義礼智信の五常、つまり人間の道徳的な価値を重視する考えがあります。これら五常を守ることで、周囲の人々との関係を良好に保つことが重要とされています。中でも、人と接する心のあり方を示す仁と、思いやりや真心を表す信が特に重要視されてきました。これにより、家族を中心とした社会、すなわち父母や兄弟を大切にするという教えが発展しました。

また、儒教では武力による支配を批判し、国家間の対立や領土争いに対しては、力ではなく道徳的なリーダーシップによって治めるべきだという考えが推奨されていました。これを王道と呼び、覇道と対比させる形で理解されてきました。

一方で、朱子学では、自然や世の中のすべてのものには上下関係が存在するという考えが主張されました。これは人間社会にも当てはまり、上下関係や身分の違い、さらには差別も自然な存在とされました。つまり、部下はリーダーの命令に必ず従い、子供は父親の言うことを絶対に聞くべきだという考え方を持っていました。これは、君主と臣下の関係を明確に理解し、常に上下の身分や礼儀を重視するという思想であり、これを「大義名分論」と呼びます。この考え方は、「大義名分」という現代でもよく使われる言葉の源となっています。

朱子学の重要な概念として、この世のすべてが「理」と「気」から成る「理気二元論」という考えがあります。「理」とは、宇宙や自然界に存在する法則や原則のことで、すべてのものが持つ本質や物事がどのように成り立っているか、どのように働くかといったことを重視しています。例えば時間の流れなどはこの「理」に該当します。「理」を理解することで、自然界や人間社会の根本原則を把握し、より良い行動をとることが可能だとされています。

一方、「気」とは、すべての物質やエネルギーを構成する要素のことで、宇宙や自然界に存在する基本的な要素を指します。具体的には、私たちが見て触れる物体や空気など、すべてのものが「気」から成り立っているとされています。そして、「気」は常に変化し、異なる形状になります。例えば、水が気温によって氷になったり蒸気になったりすることは、「気」の変化と言えます。

この「理気二元論」から導かれるのが「性善説」という考え方です。性善説とは、人間の本性はもともと善であり、宇宙の法則と一致しているという考え方です。しかし、人間は欲望や煩悩によって心が曇り、善の道から外れることがあります。朱子学では、心を養い自己修養や道徳を実践することで、理に従った良い行動を取り戻すことができるとしています。

また、朱子学では、理を理解し、コントロールできる成人が最も尊い存在とされ、次に尊いのは学問を身につけた人だとされました。この考え方は、古代中国で生まれた四民の職業階層制度、すなわち士農工商という職業の序列にも影響を与えています。士は知識人や官僚、農は農民、工は職人、商は商人を指します。この考えは、知識人や官僚が国家や社会を指導し、農民が食料を生産して社会を支え、職人が物を製作する一方で、商人は売買を通じて利益を追求する存在だとされました。そして、直接的な社会への貢献が少ないとされた商人は、社会的地位が低いとされました。

朱子学では道徳や倫理が重視されており、そのため、利益ばかりを追求する商人は社会的地位が低く見られる傾向にありました。これは古代中国だけでなく、日本の社会でも同様でした。

では、このような朱子学の教えがなぜ日本で広まったのでしょうか。その理由と歴史的な背景を考察していくことが重要です。

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朱子学の日本への伝播とその影響

朱子学が日本に伝わったのは、一般的に鎌倉時代とされています。これは、当時中国へ渡った日本の僧侶が儒教の経典を持ち帰ったことから始まりました。その後、朱子学の解説書が日本にも伝わることで、この思想はますます発展と普及を遂げました。

朱子学が日本の歴史に大きな影響を与えた事例として、後醍醐天皇が挙げられます。鎌倉時代の日本では、本来天皇が中心となるべき朝廷の政治の実権が鎌倉幕府に握られていました。これに不満を感じていた後醍醐天皇は、朱子学の教える身分を重んじる大義名分論に触れ、鎌倉幕府を倒すきっかけをつかむこととなりました。この教えによって、後醍醐天皇は「君主に従うべきである」という立場を強く主張し、政治の実権を再度天皇側に取り戻すことに成功しました。

しかし、後醍醐天皇はその後、身分を盾にした傲慢さが原因で失脚し、足利による室町幕府の時代を迎えることとなります。しかし、ここで注目すべきは、朱子学の思想が歴史を動かしたという事実です。朱子学は、自分の意見の正当性を主張するための一種の「武器」となり、その後の日本の歴史においても度々利用されることとなりました。

江戸時代と朱子学:日本における儒教思想の最盛期

朱子学が日本で最も深く根付き、その影響力が頂点に達したのは、安定した時代の訪れとともに始まる江戸時代でした。この時代の初めにあたる乱世の終焉は、徳川家康が人々の心を落ち着かせ、社会を安定させようとする意志の結果でした。

家康自身は、血で血を洗う戦国時代を生き抜いてきた人物で、基本的に他人を信用しない性格だったと言われています。部下に対しても、いつ裏切られるかという不安を常に抱えていました。そんな人間不信の中で、家康が最終的にたどり着いた解決策は、朱子学の思想を基盤にした支配のルールでした。

このルールは、一言で言えば「目上の人には絶対的に従うこと」、すなわち身分の固定化です。戦国時代は、努力次第で賤民からでも天下を取れる、いわゆる下克上の時代でした。しかし、そのような社会状況では常に頂点を争う競争が続き、安定した社会の構築は難しいと家康は考えました。

そこで、家康は朱子学の教えに基づき、身分制度を固定化する政策を採りました。具体的には、兄弟間でも長男を跡継ぎと決めてしまうことで、無駄な争いを避けるという考え方を導入しました。この考え方は、大名や民衆を統治する上で便利であり、多くの人々に受け入れられ、江戸時代の社会基盤となりました。

日本の朱子学者とその影響:林羅山から始まる学問の流れ

では、日本の朱子学者たちは具体的にどのような考えを持ち、どのようにその思想を広めていったのでしょうか。その答えを見つけるためには、徳川家康に朱子学を教えた林羅山という学者の存在を見逃すことはできません。

林羅山は、徳川家康から家綱までの4代の将軍に仕え、その知識を活用して国を統治するブレインとしての役割を果たしました。彼の目指したのは、朱子学が国の学問として認められ、統治に利用されることでした。そのために、既に民衆の間に広く浸透していた仏教や、新たに入ってきたキリスト教を攻撃するという手段を取りました。

林羅山は「天は高く、地は低い」という自明の事実が存在するように、人間社会においても君子と小人の間には明確な階級が存在すると説きました。つまり、理にかなった生き方とは、自分の身分を自覚し、それに従って行動することであると主張したのです。この考え方は、支配者層にとって非常に都合が良いものでした。そのため、林羅山の死後も朱子学者が次々と幕府のブレインとして登用されることになりました。

林羅山の教えの広がりに伴って、多くの朱子学派が生まれ、積極的に学ばれるようになりました。その結果、松平定信の時代には、朱子学以外の学問を規制するという過激な政策も生まれました。

このように、江戸時代には朱子学が急速に広まりました。しかし、その一方で、朱子学が社会のルールを形成することで生じた弊害も無視することはできません。それは一体何だったのでしょうか?次の節で詳しく解説していきます。

朱子学が及ぼした弊害

朱子学が社会のルールを形作った一方で、それは職業選択の自由を著しく制約する結果をもたらしました。固定化された社会階級とそれに伴う職業規定は、人々が自分の才能や興味に基づいて自由に職業を選ぶことを難しくしました。このような制約は、特に商人階級に対して重くのしかかりました。

その理由として、江戸幕府が朱子学の教義に従って商人階級を優遇し、経済活動を活性化させるような方針を採ることができなかったことが挙げられます。この結果、商人階級は社会的な評価を得ることが難しく、それが結果的に経済活動全体の活性化を妨げる一因となりました。

江戸時代が進むにつれて、幕府の財政状況は徐々に悪化していきました。それに対する対策は、ほとんどが一時的なもので、根本的な解決策にはなり得ませんでした。例えば、「江戸の三大改革」と言われる一連の改革でも、経済対策は節約など、比較的地味なものが中心でした。

さらに、国としての貿易も積極的には行われず、長崎など一部の地域だけが開放されました。しかも、その貿易も地元の商人に任せられていました。これは国としての経済的利益を大きく逃がす結果となりました。

このように、朱子学の教義が日本社会に与えた影響は、一見すると秩序をもたらし、安定した社会を作り出したように見えますが、同時に経済的な活力や柔軟性を阻害する一面も持っていました。それが江戸時代の日本社会に与えた影響を考える上で、重要な視点となるでしょう。

朱子学で始まり朱子学で終わる

皮肉なことに朱子学が強く社会に根を下ろす一方で、それは徳川家の終焉をもたらす要因ともなりました。朱子学の観点から見ると、国の統治者は「王道」か「覇道」のどちらかと考えられます。ここで言う「王道」は正統な統治者、つまり日本の場合、古来から国を統治してきた天皇を指します。一方、「覇道」は力によって世を統治する者、すなわち徳川家のような立場を指します。

朱子学の普及とともに、「覇道」の立場にある幕府を尊ぶよりも、「王道」の立場にある天皇を尊ぶべきだという考えが強まりました。この思想は、徳川幕府への倒幕運動の根底に流れていました。そして、この動きが加速し、結果的に徳川の時代は終幕を迎えることとなります。つまり、江戸時代は朱子学で始まり、朱子学で終わったと言えるのです。

歴史の舞台裏では、朱子学のような一つの学問が大きな役割を果たしていました。もちろん、それは単に政治の道具となったり、時代を混乱させるだけでなく、私たち現代人が家族を大切にするという価値観や社会秩序を維持するという思考にも大きく寄与しています。特に、朱子学は知識と教育を重視する思想であり、その影響は広範な人々に及びました。

実際、地方の寺子屋が広まり、庶民を含む幅広い層の人々が教育を受ける機会を得ることができたのも、朱子学の教えが社会に普及した結果でした。つまり、朱子学は私たちが今日持つ価値観や社会制度の形成にも大きな影響を与えていたのです。

終わりに

このように、朱子学から現在の日本を見たところ、弊害が大きく見られる。

優秀な人材が評価されず、若者が使い捨ての道具のように扱われる。

またミスミス利益を逃している場面も多く見られる。

こう見ると、思想というのは国一つの存亡においてとても恐ろしいものだと言えよう。

このように色々な思想や考え方を学び受け入れ、その時代に沿った思想転換が大切なのかもしれない。

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