【名随筆】春宵十話|岡潔 を詳しく解説
【名随筆】春宵十話|岡潔
今日は、世界的な数学者である岡潔先生の著作「春宵十話」をご紹介します。この作品は、創造性や豊かな心を育む重要性を説く天才数学者による人間論です。特に教育に関心がある方や、クリエイティブな仕事をされている方、繊細な心を持ち、学ぶことが好きな方におすすめの一冊です。
岡潔先生は、多変数関数論という分野で、当時世界中の誰もが手に負えなかった難題を一人で解決し、日本の数学界に名を刻んだレジェンドです。また、2018年には彼の人生がドラマ化され、大きな話題となりました。
一般的には、数学は論理的な学問だと考えられていますが、岡先生は情緒を学問の中心に据え、心の重要性を訴えました。この素晴らしい数学者が、どうして人間の心を学問の中心と位置づけたのでしょうか?また、彼の背景にはどのような思いが込められていたのでしょうか?
彼の波乱に満ちた人生や代表作をもとに、この問題に一緒に向き合ってみましょう。
岡潔先生の人生を紹介した後、本書の内容について、具体的には「成長が遅い方が良い」、「人間の頭を作るもの」、「道義的センスを身につける」という3つのテーマに沿って進めていきます。「春宵十話」を読む上でのポイントは、岡先生のドラマチックな人生を理解しておくことです。
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岡潔先生の人生
岡潔先生は明治34年に大阪府大阪市で誕生し、生後間もなく父親の実家である現在の和歌山県橋本市に移り住みました。自然に恵まれた環境で幼少期を過ごし、中学生の頃には父親の書斎で偶然見つけたイギリスの数学者クリフォードの著書に出会い、数学の神秘さと奥深さに感銘を受け、数学者としての道を志すようになりました。
京都大学理学部に進学し、本格的に数学者として生きる決意が固まった岡先生は、1929年にフランスのソルボンヌ大学に留学しました。そこで彼は、後の人生に大きな影響を与える2つの運命的な出会いを果たします。
まず1つ目は、同じ日に日本から留学していた若き考古学者・中谷寺裕次郎さんとの出会いです。専門分野が違っていたにも関わらず、二人はすぐに親しくなり、お互いの夢について語り合い、やがて親友となりました。岡先生は、中谷さんとの出会いがフランスでの最大の体験だったと語っています。
そして2つ目の出会いは、研究テーマとなる多変数関数論です。多変数関数論は20世紀初頭から数学者の間で注目されていた分野でしたが、その難しさから世界中の数学者が挑戦を避けていました。しかし、岡先生は険しい道を進みたいと考え、多変数関数論を研究テーマに選び、日本へ帰国することになったのです。
岡先生はフランスでの留学を通じて、人生初の親友である中谷寺裕次郎さんと出会い、将来の明確な目標を見つけ、順調に人生を歩んでいました。しかし、日本に戻ってから4年後、彼は驚くべき事件を引き起こします。近所の川の土手を歩いていた中学生から、持っていた書籍、靴、帽子などを取り上げ、事件は警察沙汰となりました。この事件は「広島事件」として新聞にも大々的に取り上げられました。では、なぜ岡先生はこのような不可解な行動をとったのでしょうか?
結論から言いますと、数学の研究に打ち込み過ぎて精神に異常が生じたためです。しかし、気が狂うほど数学に没頭したのは、そのテーマが難しかったからだけではありません。事件が起こるほんの数ヶ月前に、親友中谷寺裕次郎さんの訃報が引き金となりました。
実は中谷さんは過去に肺の病気である肋膜炎にかかり、フランス留学中に再発して倒れてしまいました。そんな中、岡先生は献身的に中谷さんを支え続けました。彼がフランスで安心して療養できるよう、留学期間を1年延長したり、自分の生活費を切り詰めて余ったお金を中谷さんの医療費や生活費に充てたりしました。しかし、それでも中谷さんの病状は回復せず、34歳という若さで亡くなりました。
岡先生にとって中谷さんは最大の理解者であり、かけがえのない親友でした。彼の死により悲しみや苦しみ、怒りを抱えた岡先生は、その感情を数学にぶつけることにしました。そして、事件の責任と精神の異常により、当時勤めていた広島大学を退職し、故郷の和歌山県へ帰りました。地元の山中で引きこもり、寝る時間以外は数学に費やすという狂気的な生活を始めました。
もちろん、職を失ったため、その生活は大変貧
しく苦しいものでした。また、周囲の人々からは奇人変人と呼ばれ、近所の子供たちからも度々からかわれていたと言われています。しかし、それでも研究を続けることができたのは、岡先生を信じて支え続けた奥さんと、そしてもう一人、ある人物の存在があったからです。
この人物こそ、岡先生の研究を理解し、彼の才能を信じて支援を続けることを決めた人物でした。彼のおかげで、岡先生は貧しい環境の中でも数学の研究に専念することができ、やがてその成果が認められるようになりました。
その人物こそ亡くなった中谷さんの兄、中谷宇吉郎さんは、フランス留学中に知り合った学者で、世界初の人工雪を作成した人物として知られています。彼は、自身の研究成果による賞金の一部を岡先生の家に送金し、研究への支援を惜しみませんでした。中谷宇吉郎さんや他の周囲のサポートを受け、岡先生は大きな悲しみを乗り越え、数学界で最高峰の地位を目指し続けました。
その結果、約20年の歳月をかけて、見事に多変数関数論の3大問題をすべて解決し、前人未到の偉業を達成しました。
当時、世界最高の数学者の一人と言われていたカール・ルートヴィヒ・シーゲルは、岡先生に会うために日本まで飛び、彼について次のように語りました。「私は岡潔をずっと架空の人物だと疑っていた。20人から30人くらいの数学者が共同で研究し、それを岡潔という代表名で発表していると本気で信じていた。なぜなら、あれほどの論文をたった一人の人間が書けるはずがないからだ。しかし、岡潔は実在した。本当に一人の人間として存在していた。この事実に私は信じがたいほどの衝撃を受けた。」
このように、世界を驚かせた岡先生は、その類いまれな業績が評価され、1910年に文化勲章を受賞しました。その受賞式典で、天皇陛下が数学とは何かと問われた際、岡先生は「数学とは生命の源泉である」と答えたと言われています。晩年には、数学の研究だけでなく、思想家として心の研究や執筆活動にも力を注ぎ、多くの随筆を残しました。その中でも特に代表作として名高い作品が、これから紹介する「春宵十話」です。
それでは以上の点を踏まえましていよいよ中身に入っていきます。
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まず、成長が遅い方が良いというテーマから考察していきましょう。
本書では岡先生はこう書かれています。
『私は数学の研究者であり、大学卒業後から現在まで39年間研究に励んできました。おそらくこれからも続けるでしょう。数学は、独自の表現方法を通じて構築される学問や芸術の一つです。数学を学ぶことが人類にどのような利益をもたらすのかと問われることがありますが、私はこう答えてきました。「すみれはただすみれのように咲くだけで良い。それが春の景色にどのような影響を与えようと、すみれには関係ない。」つまり、私にとっては、数学を学ぶ喜びを享受し、それで生活しているだけのことです。
そんな私が皆さんの前で話をしようと思い立ったのは、最近この国の状況が非常に心配で、黙っていられなくなったからです。私はできるだけ世間から離れて暮らしていますが、それでも私なりに感じることがあり、世間の人たちに聞いてほしいと思うことがあります。今日はそれを中心にお話ししましょう。』
『日本だけでなく、世界中でも、学問や教育が人間を無視した形で進められているように感じます。実際には、人々が学問を学び、教育を受けたり提供したりしています。だからこそ、人間こそ学問の中心になるべきだと思います。現在、人間に対する知識の不足が最も顕著に現れているのは、子育てや義務教育の分野ではないでしょうか。
人間は動物ですが、ただの動物ではありません。
人間は動物の性質に人間性という要素を加えた存在です。我々が単純に速く成長させるだけで良いと考えて子育てや教育を行っているのではないでしょうか。例えば、植物の成長過程を観察しても、渋柿の木は甘柿の木よりも速く成長することがわかります。つまり、成熟が速いことは警戒すべきサインです。成熟は早すぎるよりも遅すぎる方が良いと考えるべきです。これが教育における根本原則だと私は思います。』
このように岡先生は日本の未来を非常に心配していたようです。教育分野で人間に対する知識の不足が顕著であると指摘しましたが、特に強調していたのは動物性を育てることの危険性です。
動物性とは、人間性とは反対の概念で、動物的な生存本能や闘争本能を意味しています。つまり、他の人よりも多くのことを学ぶよう求めたり、早く評価されるような成長を促したりすることは、動物的な生存本能や闘争本能を刺激する教育方法であると警告していました。
私たちは人間であるからこそ、時間をかけてじっくり人間性を育てるべきだと岡先生は強く訴えていました。もちろん、何らかの分野で他の人よりも早く成長したり、成果を出せることは素晴らしいことだと思います。しかし、動物性に偏った人間を育てるシステムに依存していると、最終的には自らの首を絞めることになると岡先生は危機感を抱いていたのです。
では、具体的に人間性のどの部分に注目すべきかということですが、岡先生が重視していたのは、個々の成長や才能を大切にしつつ、他者との協力や共生を重んじる考え方であると思われます。このような人間性を育てることが、教育の真の目的であると岡先生は考えていたのでしょう。続けてみていきましょう。
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次に、人間の心について考察していきたいと思います。学問は頭で行うものだと一般的に言われていますが、私は人間の情緒こそが学問の中心であると主張したいです。情緒は民族の違いによってさまざまな表現があります。例えば、春には様々な色の草花が咲くように、人間もまた感情が不安定になると体に何らかの不調が現れます。
情緒は交感神経と副交感神経の2つの神経によってバランスが調整されています。そして、この神経を制御する場所は大脳皮質から離れた頭の真ん中辺りにあるとされています。つまり、この部分こそが情緒の中心であり、人そのものの中心であると言えます。
しかし、私はただ単に情緒教育を行うべきだと主張したいわけではありません。今日の行動が明日の心を作るということを理解してほしいのです。情緒の調和が損なわれると、人の心は腐敗し、社会や文化も急速に悪化していくでしょう。かつての日本はどこへ行ったのか、情緒の中心こそが人間の本質であることを理解し、荒らすことを許さないという意識を皆さんに持っていただきたい。これが私の願いです。
岡先生は学問の中心であり、人間の中心は情緒であると結論付けました。情緒とは、一言で言えば人の心のことを意味しています。具体例を挙げて説明すると、スミレの花が目の前に咲いているとき、心が自然に動く様子が情緒によるものです。
では、情緒が失われるとどうなるでしょうか。スミレの花を見ても、ただそこに花があるとしか思えなくなります。美しい朝焼けの空を見ても、ただの空にしか思えなくなります。人や社会に対しても、心のセンサーが反応しなくなるのです。
岡先生は、情緒の調和が崩れると人間の心が腐敗し、社会や文化も悪い方向に進むと警告しています。では、どうすれば情緒を磨くことができるのでしょうか。本書の結論は、直感を鍛え、善行を繰り返すことです。直感を鍛えることで、心に響くものや人間性を理解しやすくなります。また、善行を繰り返すことで、心が豊かになり、他人への共感や理解が深まるでしょう。
要するに、岡先生が強調しているのは、情緒や直感、善行といった人間性を大切にすることです。これらを磨くことで、人間の心が豊かになり、社会や文化も良い方向に進んでいくと信じています。
しかし、現代社会では、情緒や直感を磨くことが疎かにされがちです。成果や競争を重視する教育や働き方が一般的になっており、人間性を育てることが後回しになってしまっています。この状況を変えるためには、私たち一人ひとりが情緒や直感を大切にし、善行を繰り返すことが求められます。
岡先生の教えを今日の私たちにも活かすことができるはずです。情緒や直感を大切にし、善行を繰り返すことで、私たち自身の心が豊かになり、周りの人たちや社会全体にも良い影響を与えられるでしょう。そのような人間性豊かな社会を築くことが、私たちが目指すべき未来だと考えます。
日本人はもともと感性に重きを置いた生活を送り、直感を信じてすぐに行動に移すことを重視していた。明治時代の改革運動が成功したのも、このような日本人の特徴があったからだろう。大自然の力である直感の中には、「純粋直感」と呼ばれるものがある。この力があると、自分にとって明らかに正しいことや疑問に思うことを素直に感じ取り、革新や問題解決ができる。しかし、この力が弱まると、他人の意見にすがりつくようになり、自分独自の見解を持てなくなる。
現代の日本を見ると、かつての感性や純粋直感の力が弱まっており、まるで深海の底に差す日光の輝きが薄れているかのように感じられる。昔の日本人は感性に重きを置いた生活を送っており、純粋直感の力も強かった。しかし、現代はその感性や純粋直感が失われ、あまり良い状態にはない。
純粋直感を鍛えるためには、普段から以下のようなことに注意することが良いでしょう。
- 自分の感覚に素直になる: 自分が感じることを大切にし、他人の意見に流されないようにする。
- 自分独自の意見を持つ: 物事に対して自分なりの意見や考えを持ち、他人と違う意見を大切にする。
- 観察力を鍛える: 周りの状況や人々の様子をよく観察し、直感を働かせる練習をする。
- 経験を積む: 様々な経験を通じて、直感を磨くことができる。
以上のポイントに注意して、純粋直感を鍛えることで、現代の日本人も感性豊かな生活を送ることができると岡先生は伝えています。
日本という国では、少しも打算の入らない行為こそ尊重され、純粋直感が働いている。かつての日本人はこの純粋直感が非常によく働いていた。それは絶えず善行を行うことによって、感性を磨いてきた。
その結果、人々は善行とは何かを理解し、善行を繰り返した。つまり、日本的な感性はこのようにして形成されたのである。私たちはこの美しい伝統を引き継ぐ使命がある。
例えば、岡先生と中谷さんの関係性を考えるとイメージしやすい。中谷さんが病によって倒れた時、岡先生は日本に帰るタイムリミットが迫っていた。しかし、迷わず留学期間を1年延長し、友人の治療費や生活費を自分が払うと決断した。この岡先生の行動は理屈ではなく、純粋な直感によるものだ。恩を売っておけば見返りがあるかもしれない、といった気持ちは全くない。遠い異国の地で学者人生が断たれた中谷さんの不安や強さを、岡先生はまるで自分のことのように感じ取っていた。
要するに、損得勘定で決めるのではなく、純粋な直感を働かせて人に接したり、人に与えたりする行為が、日本人は当たり前のようにやってきた。そうやって繊細で美しい感性を磨いてきた。
しかし、現代の日本ではかつての繊細で美しい日本的感性が簡単には取り戻せない。ではどうすればいいのか。岡先生が出した最終的な結論は、日本の義務教育から根本的に変えていくことだと訴えている。
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最後に道義的センスを身につけるというテーマについて見ていきます。
『私が本当に心配しているのは、現代の教育のあり方です。もっと緊迫した状況になれば、皆が気づくかもしれない。しかし、それでは遅すぎるでしょう。義務教育が今果たすべきことは、道義的センスを身につけることです。』
ここでいう、道義的センスの根本にあるものとは何か。それは人の悲しみを理解することだと言います。人間の強さやたくましさは理解できても、繊細な心の悲しみを理解する人が現代ではどれだけいるでしょうか。人の心を知らなければ、どんな物事に取り組んでも緻密さが失われ、雑になります。対象への細かい心配りができないのです。
現代の教育では個人の幸福が目的になっており、道義教育が疎かにされています。犬をしつけるように、主人に嫌われないための行儀を教え、食べていくための技能を仕込んでいるだけです。自分さえ満足すれば人生はそれでいい、と言うのなら、それは獣と変わらないではないか。大切なことは動物的な本能を磨くことではなく、人間としての感性を磨くことです。
そのためには、人間の心の動きをよく観察し、それを汲み取るように導いていく必要があります。また、さまざまな美しい話を聞かせ、感性を養い、人としての正しいことや恥ずかしいことを見極めるセンスを育てていかなければなりません。ただ何より大切なのは、それを教える人間の心です。
岡先生が言うところの「悲しみが分かる」ということは、相手が抱える悲しみを自分の悲しみとして捉えることです。こういった繊細な感覚が分からないと、物を作るにしても、言葉で表現するにしても、デリカシーが欠けたり、肝心な情報が抜けたり、雑なアウトプットになってしまいます。つまり、良い仕事ができないということになります。
ただし、こういった行動をしたら人が悲しむ、喜ぶといったマニュアル的な対応方法を教えても、それは動物に行儀を押し付けていることと同じであり、結局感性が磨かれることはないでしょう。では、どうやって感性を育てていけばいいのでしょうか。
それはまず、教育の場で、人間の心の動きや感情を理解する力を重視することが重要です。子どもたちに empathy(共感)を持つことや、他人の立場や心情に配慮することを教えることで、彼らの感性を磨くことができます。
また、文学や芸術、歴史などの教科を通じて、人間の心の営みや美しいものへの感性を養うことも大切です。これらの教科を通して、子どもたちに人間の喜びや悲しみ、葛藤や成長を体感させることで、彼らの心の豊かさが育まれます。
さらに、道義的センスを身につけるためには、教育者自身がそのような感性を持っていることが不可欠です。教育者は、自分の心の状態や感情を繊細に捉え、それを子どもたちに伝えることができる人でなければなりません。そのためにも、教育者向けの研修や支援が必要です。
最後に、家庭や地域社会でも、道義的センスを大切にする風土を作り出すことが重要です。子どもたちにとって、家庭や地域社会は学校以外で感性を磨く場です。親や地域の人々が互いに助け合い、共感し合うことで、子どもたちもそのような感性を自然と身につけることができます。
以上のような取り組みを通じて、道義的センスを身につけた人々が増えることで、社会全体がより豊かで繊細な心を持つことができ、そして、それが最終的には個々人の幸せにも繋がることだと伝えています。
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数学者の岡先生が書かれた本ということでしたが、もっと理論的なものかと思いきや、とても情緒的で文学的な内容でした。
今、自分さえ良ければいいというような風潮が蔓延しています。そうなると誰を信じていいのか、疑心暗鬼になり、結局自分の首を絞めてしまいます。
そうではなくお互いを思いやり、損得なしで、相手のことを思いやり、付き合えるそんな世の中ができれば、皆幸せになれると思われますが、これは究極の人間関係と言わざる得ないのかもしれません。
ですが、その気持ちは持ち続けることは大切だと思います。
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