
世界を震わせた「悪女たち」──欲望が導いた3つの悲劇
歴史の教科書には、王や英雄の名前ばかりが並びますが、その裏で時に歴史を動かしてきたのは、“女性たち”の存在でもありました。
特に「悪女」と呼ばれた女性たちは、時代を超えて人々の記憶に刻まれ、今なお伝説や物語の題材となっています。
今回は、ヨーロッパ史にその名を刻んだ、3人の“最恐の悪女”
- 黒魔術師【ラ・ヴォワザン】
- 吸血伯爵夫人【エリザベート・バートリ】
- 策謀の女王【カトリーヌ・ド・メディシス】
この3人が、どのようにして悪名を轟かせたのか、そしてどんな最期を迎えたのかを、歴史に残る実話をもとに振り返っていきます。
血塗られた野望、狂気、美への執着、そして母としての愛……。
その裏に隠された「人間の欲望」とは、一体何だったのでしょうか?

【恐怖の魔女】ラ・ヴォワザン ― 黒魔術に手を染めた17世紀フランスの闇

17世紀、ルイ14世が絶対王政を敷くフランス。その華やかな宮廷社会の裏で、ある“魔女”が暗躍していたのをご存知でしょうか?
その名は、ラ・ヴォワザン。占い師、薬草師、そして黒魔術師。フランス史上に名を刻んだ「最恐の悪女」として知られています。

■ 魔女の血を引く女 ― ラ・ヴォワザン誕生
ヴォワザンは、もともとフランス・パリで占いや薬草を扱う平凡な女性でした。彼女の母は、有名な魔女で、皇帝や王たちも助言を求めたほど。幼い頃から、呪術や薬草学に親しみ、その知識を自然と身につけていたと言われています。
しかし、夫の貿易事業が破綻したことをきっかけに、ヴォワザンの人生は大きく変わっていきます。生活に困窮した彼女は、母から受け継いだ知識を本格的に活かすべく、占いや薬草販売、さらには毒薬や避妊薬、媚薬などを密かに提供する裏稼業を始めました。
■ 上流階級が虜になった「黒いビジネス」
ヴォワザンの噂は瞬く間にパリ中に広がります。当時の貴族や王族は、愛人争いや政敵の排除に日々悩んでおり、
「愛を手に入れたい」「邪魔な相手を消したい」という願望を叶えるため、こぞって彼女の元を訪れるようになったのです。
ヴォワザンは占いや薬草販売だけでなく、黒魔術(黒ミサ)を引き受け、裏では大量の毒薬を流通させ、莫大な富を築いていきました。
彼女の顧客は、庶民ではなく、ほとんどが宮廷の上流階級。表では華やかに舞踏会を楽しみ、裏では闇の儀式に手を染める貴族たち。そんな異様な光景が、当時のフランスで日常的に繰り広げられていたのです。

■ ルイ14世の愛人も黒魔術にすがった
ヴォワザンの名が歴史に刻まれた最大の理由は、ルイ14世の愛人モンテスパン夫人との関係にあります。
モンテスパン夫人は、ルイ14世の寵愛を失いかけていました。そこで彼女は、ヴォワザンに命じて黒ミサを執り行わせたのです。
この儀式では、当初は流産した胎児などが犠牲にされていましたが、次第に儀式はエスカレート。なんと、生きた幼児を生贄にするまでに至ったと言われています。
血塗られた黒ミサは幾度も行われ、その効果があったのか、モンテスパン夫人は再びルイ14世から寵愛を受けます。しかし、この行為こそが、ヴォワザンを破滅へと導くきっかけとなりました。
■ 被害者は2000人超、そして最期
ヴォワザンの毒薬と黒ミサによる犠牲者は、2000人以上とも伝えられています。
その中には、無数の貴族たちに犠牲を強いられた無実の幼児たちも含まれていました。
やがて、密告によってヴォワザンの闇は暴かれます。黒ミサの実態や大量の毒薬が明るみに出ると、フランス全土は騒然。彼女は逮捕され、裁判にかけられました。
そして、火あぶりの刑という当時最も重い刑に処され、39歳でその生涯を終えます。
死の間際、彼女は決して罪を認めることなく、群衆に向かって罵声を浴びせ続けたと言います。
■ ヴォワザンの教訓
ラ・ヴォワザンの事件は「アフェール・デ・ポワソン事件」とも呼ばれ、フランス王国の汚点として語り継がれています。
欲望、権力、そして愛――。
人間の欲求がどこまで人を狂わせ、罪を犯させるのかを、まさに体現した人物こそがヴォワザンでした。

【血に染まった伯爵夫人】エリザベート・バートリ ― 若さを求めた吸血鬼伝説の元祖

ヨーロッパ史において「最も血にまみれた悪女」とまで呼ばれる女性、エリザベート・バートリ。
ドラキュラ伝説や「ブラッドバス(血の風呂)」の元ネタになったとも言われる、恐怖の実話が彼女にはあります。

■ 名門バートリ家の令嬢
エリザベートは、16世紀のハンガリーで、名門バートリ家に生まれました。
バートリ家は、あのポーランド王・ステファン・バートリの血を引く、ヨーロッパ屈指の名家。さらにエリザベート自身も、幼少期から語学・学問・礼儀作法に秀でた才女だったと記録されています。
しかし、彼女の家系には不吉な影も……。
バートリ家は財産や地位を守るため、長く近親婚を繰り返しており、一族には精神的に不安定な者が多かったのです。
エリザベートもその例外ではありませんでした。
■ 悪女への第一歩 ― 戦争と孤独
15歳の時、エリザベートはハンガリー軍の英雄フェレンツ・ナーダシュディ伯爵と結婚します。
夫はオスマン帝国との戦争で長く留守がち。孤独な城で、エリザベートは贅沢に溺れ、愛人を作り、欲望のままに生きるようになります。
しかも夫フェレンツは、戦場で敵兵を拷問し快楽を得ていたとされ、エリザベートもその影響を受けて残虐性を磨いていったと言われています。
■ 「血は若返りの秘薬」 ― 狂気の始まり
ある日、メイドが髪をとかしていた際に手が滑り、エリザベートの髪を引っ張ってしまいました。怒った彼女はメイドを暴行、その際に飛び散ったメイドの血が自分の手にかかり、そこが白く美しくなったと錯覚します。
「処女の血を浴びれば、永遠に若く美しくいられる」
そう信じた瞬間から、彼女の狂気は加速しました。
■ 吸血伯爵夫人の悪行
エリザベートは、メイドや領民の娘たちを次々に城に連れ込み、拷問の末に血を搾り取り、浴槽にためてその血風呂に浸かったと伝えられています。
その残虐さは筆舌に尽くしがたく、
- 火傷
- 骨折
- 針を体中に刺す
- 凍った水に沈める
など、拷問のバリエーションは数十種類。
さらに恐ろしいことに、若い娘が領内から消えたことで領民たちは恐怖に震えましたが、誰も**「バートリ家に逆らえない」**という恐怖から沈黙していたと言われています。

■ 血の祭壇「アイアンメイデン」

特に有名なのが、エリザベートが用いたとされるアイアンメイデン(鉄の処女)。
聖母マリア像の形をした処刑器具で、扉の内側には無数の針が仕込まれており、閉じると生きたまま体を串刺しにする恐怖の装置です。
この器具で犠牲になった娘たちの血は、管を通じて下の浴槽に流れ落ち、エリザベートは温かい血に浸かりながら美を保とうとしたという記録が残っています。
まさに、人間ドラキュラとも呼ばれるに相応しい行為です。
■ 650人の少女を犠牲に
犠牲になった少女は、650人以上とされています。
そのほとんどがメイドや村の娘たちでしたが、やがて領地内の若い娘が尽きると、貴族の子女にも手を出すようになります。
しかし、これが彼女の命取りとなりました。

■ 最期 ― 永遠の牢獄へ
ついに王室も事態を重く見て捜査を開始。拷問に耐えかねた召使たちが証言し、エリザベートは逮捕。
死刑にはなりませんでしたが、終身禁固刑を言い渡されます。
城の一室に小さな窓だけの完全な独房を用意され、そこで食事も光もほとんど与えられず、自慢の美貌を見ることも許されないまま孤独に死を迎えました。
享年54歳。
美に憑かれ、血に染まった伯爵夫人の最期は、誰からも看取られない哀れなものでした。
■ エリザベート・バートリは伝説となった
このエピソードは、現代の吸血鬼伝説やゴシックホラーにも大きな影響を与えています。
「ブラッドバス(血の風呂)」という言葉は、エリザベートの残虐な行為から生まれたとも言われています。
彼女の物語は、人間の欲望がどこまでもエスカレートすると何を引き起こすのかを、強烈に教えてくれる歴史上の警鐘なのです。
【悲劇と陰謀の女王】カトリーヌ・ド・メディシス ― フランス王妃にして悪女と呼ばれた女性

美しさでも残虐性でもなく、策謀と陰謀で“悪女”と語り継がれたのが、16世紀フランスの王妃カトリーヌ・ド・メディシスです。
彼女は本当に冷酷な“悪女”だったのか? それとも、時代に翻弄された“悲劇の女王”だったのか?
その人生は、あまりにも波乱に満ちたものでした。

■ 名家メディチ家に生まれるも、孤児に
カトリーヌは、イタリア・フィレンツェの名門メディチ家に生まれました。
父はフィレンツェの支配者ロレンツォ・デ・メディチ、母はフランス王家の血を引くマドレーヌ。しかし、彼女が生まれて間もなく、父母は相次いで病死し、カトリーヌはわずか数日のうちに孤児となってしまいます。
その後、各地の親族を転々とし、孤独な少女時代を送ります。
「もし男児だったなら……」
フィレンツェの支配者として生きられたはず、という当時の記録は、彼女の不遇さを物語っています。

■ 政略結婚でフランス王家へ
カトリーヌはやがて、教皇クレメンス7世(メディチ家出身)の後ろ盾を得て、フランス王国アンリ王子(後のアンリ2世)との結婚が決まります。
しかし、この結婚は単なる「政略結婚」に過ぎず、夫アンリの心は年上の愛人ディアーヌ・ド・ポワチエに奪われたまま。
王妃となった後も、夫は愛人のディアーヌを最優先に扱い、カトリーヌは屈辱と孤独の中に置かれました。
さらに、なかなか子を授かれなかった彼女は、周囲から離縁の噂まで囁かれ、必死に様々な民間療法や呪術を試したと言われています。
■ 母としての勝利と、妻としての敗北
しかし、そんな努力の甲斐あって、カトリーヌはついに9人もの子どもを出産。
その後、フランス王家はカトリーヌの子孫によって継承されることになります。
ですが、夫アンリ2世の愛情は最後までディアーヌに向けられたまま。
そしてついに、アンリは馬上試合で事故死。
その最期の瞬間でさえ、彼はディアーヌの名を呼んでいたと言われています。
■ 影の女王から「悪女」へ
アンリの死後、王位を継いだのは長男フランソワ2世。しかし、フランソワは病弱で、わずか1年余りで死去。
次男シャルル9世が幼くして即位すると、カトリーヌは正式に**摂政(実質の政治指導者)**となります。
ここから彼女は、王国を守るために策略を張り巡らせ、歴史に名を残す悪女エピソードを作り上げていきます。
■ サン・バルテルミの虐殺
当時フランスでは、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の対立が激化し、内戦状態。
カトリーヌは和平のため、自身の娘とユグノーの指導者ナヴァール王アンリとの結婚を計画します。
しかし、この結婚式が終わったわずか数日後、フランス中を震撼させる悲劇が起きました。
それがサン・バルテルミの虐殺です。
結婚式に集まっていたユグノー貴族たちを、カトリック側が襲撃。
これがきっかけで、民衆まで暴徒化し、1週間に渡って約1万~3万人ものユグノーがパリや地方で虐殺されました。
この惨劇は、今なおヨーロッパ三大宗教戦争事件のひとつとして語られています。

■ 本当にカトリーヌの陰謀か?
この事件の首謀者は、当時から「カトリーヌ・ド・メディシス」だと言われてきました。
冷酷な策略で、ユグノーの力を削ぐために計画された陰謀だった――。
しかし、近年の研究では、
- 決定は重臣たちによるもので、カトリーヌは最終的に容認しただけ
- そもそも対象はユグノー指導者数名のみで、大虐殺までは予想していなかった
という説も有力です。
実際に、彼女が全面的に虐殺を主導したという確たる証拠は今も見つかっていません。
■ 最期 ― 権力を守った代償
晩年のカトリーヌは、子供たちやフランス王家を守るために数々の困難と向き合いました。
しかし、ユグノー戦争は泥沼化、王家は衰退の一途をたどり、カトリーヌは息子たちの愚行に心を痛め続けたと言われています。
1589年、70歳でその波乱の生涯に幕を下ろします。
■ カトリーヌ・ド・メディシスは本当に悪女だったのか?
確かに彼女は策謀家であり、冷静な判断を下すこともありました。
しかし、その背景には、
- 愛されなかった王妃
- 息子たちを守ろうとした母
- 戦乱の世を生き抜くために必死だった女性
としての苦しみが隠されています。
後世、「イタリア人の魔女」と呼ばれましたが、彼女が本当に悪女だったかは、今なお議論が分かれています。

欲望に飲み込まれた悪女たちの教訓
ラ・ヴォワザン、エリザベート・バートリ、カトリーヌ・ド・メディシス。
この3人に共通しているのは、単なる「残虐」ではなく、欲望に翻弄された人生だったということです。
- お金や権力のために、魔術と毒薬で人を操ったヴォワザン
- 美のために、無数の命を奪ったバートリ
- 家族と国家を守るため、策謀に身を投じたカトリーヌ
彼女たちは決して最初から悪だったわけではなく、「どうしても叶えたい願い」がありました。
しかし、その欲望が暴走し、時代や環境、権力構造の中で狂気へと変わっていったのです。
今の時代に生きる私たちにとっても、欲望は身近なもの。
だからこそ、彼女たちの物語は単なる“昔話”ではなく、
「人間は、欲望に飲まれた時、どれだけ残酷にもなり得るのか」
という、大きな教訓を今もなお私たちに問いかけているのかもしれません。
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