親鸞『煩悩を失くすなんて、そもそも無理なんだよ』/他力本願
突然ですが、皆さんは自分を才能のある人間だと思いますか?それとも、才能のないダメな人間だと思いますか?こう聞くと、きっと次のように思うのではないでしょうか。
「はあ?なめてんのか?お前、才能があるとまでは言わねえけど、ダメな人間ってほどじゃねえだろ。別にまあまあの普通の人間に決まってんだろ!」
こんな感じで、才能がないわけではないけど、あると言いきれるほどでもない、そんな風に自分を“それなりの人間”だと思う人が多いのではないでしょうか。
仏教における他力本願を説いた親鸞は、こう言います。
「自力で何かを成し遂げられるって思うやつは、多の重要性を理解していないやつなんだよ。自分が何かをできると考えるから傲慢になり、最終的に不幸を招くんだよ。」
このように、自分の才能や、自分で何かをできると考えることは「傲慢そのもの」であり、最終的には不幸を招くと親鸞は考えました。続けて、彼は次のように語ります。
「自分のどうしようもなさ、自分の無力さ、それを理解できるからこそ、物事の本質に気づけるんだよ。物事は『起こすもの』ではなく、『起こるもの』なんだよ。」
つまり、自分の無力さを知ることで初めて他の重要性を理解し、物事は自分で起こすものではなく、多(=他力)によって起こるものであることを理解できる。その結果、不安や悩みなどの苦しみから解放される、と彼は説きました。
それでは、今日は親鸞が語る「悪人こそが救われる理由」について、簡単に解説しましょう。
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親鸞という人物について
親鸞は1173年、京都に生まれました。彼が生まれた時代は、大きく揺れ動いていました。天皇や貴族が中心となっていた平安時代から、武士が実権を握る鎌倉時代へ移り変わり、争いが繰り返される戦乱の世の中でした。
さらに、台風や大地震といった自然災害や疫病が相次いで発生するなど、非常に不安定な時代でした。親鸞が5歳の時には京都で大火災が発生し、翌年には大飢饉が起きて、4万人を超える死者が出たといいます。
そのため、当時の人々はこう考えていました。
「いよいよ仏教の教えは衰退してしまった。釈迦の説いた道徳をみんな忘れてしまったんだ。」
こうした時代背景もあり、親鸞の父は息子を仏教に立ち返らせるために、比叡山延暦寺に送りました。そこで親鸞は約20年間、厳しい修行に励み、必死に仏教を学びました。
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修行に挫折した親鸞
しかし、29歳になった親鸞は、次のように言いました。
「全然悟れんのだが。むかついたら愚痴を言いたくなるし、金も欲しいし、女も抱きたいし……わし、全然煩悩まみれなんだが!」
20年もの修行を経ても、悟りに至ることができず、煩悩に支配されたままだったのです。親鸞は修行をやめ、仏教の本質を求めて山を下りました。
その後、彼は六角堂に籠り、100日間の瞑想を行いました。そして95日目、夢の中に観音菩薩の姿をした聖徳太子が現れ、こう告げました。
「救われるためには厳しい修行なんて必要ないんだよ。煩悩を持った人間も救ってくれる――それが仏教の本質なんだよ。」
この夢によって、親鸞は「仏教とは煩悩を持った人でも救ってくれるもの」だと悟りました。そして、法然という人物のもとを訪れ、弟子入りすることになります。
他力本願の教え
親鸞の思想を語る上で欠かせないのが「他力本願」という概念です。この言葉は現代では「他人任せ」というネガティブな意味で使われがちですが、本来の意味は全く異なります。親鸞が説いた「他力本願」とは、「仏の力(阿弥陀仏の本願)を信じて身を委ねること」を指します。この教えには、親鸞の深い人間観と救済の思想が込められています。
人間の限界と他力の重要性
親鸞は、人間が「自力」で何かを成し遂げることには限界があると考えました。それどころか、自分の意思や努力でさえ、実は自分の力ではない、と彼は説きます。その理由として挙げられるのが、「人間の行動や思考は、偶然や環境、過去の経験によって形作られる」という見解です。
親鸞の言葉を借りるならば、
「人間が自分の力でできることなんて、何ひとつないんだよ。」
例えば、何かに向けて努力しようと思う気持ちさえも、その人の「欲求の強さ」「これまでの経験」「周囲の環境」といった外的・内的な要因に依存しています。このように考えると、人間が自分の意思だけで努力を決意するというのは、幻想に過ぎないのです。
努力の背景にある偶然性
親鸞の「他力本願」の考え方をより深く理解するために、努力の背景について考えてみましょう。
例:サッカー選手を目指す少年
ある少年がサッカー選手になったとします。この成功を「本人の努力の賜物」と考えるのが一般的ですが、親鸞の視点では次のような偶然や要因が絡み合っています。
- 偶然の興味
幼い頃、たまたまテレビでサッカーを観て興味を持ったことが始まりです。これがなければ、彼はサッカーに触れることすらなかったかもしれません。 - 環境の影響
父親がサッカーの練習に付き合ってくれたこと、地元にサッカークラブがあったこと、これらの環境要因が、彼の努力を支えています。 - 楽しさと継続
幼い頃にサッカーを楽しいと思えたからこそ、練習を続ける意欲が湧きました。もし、最初に失敗体験ばかりしていたら、サッカーを嫌いになり、続けられなかったかもしれません。 - 他者の支援
クラブのコーチやチームメイト、親の支えなど、周囲の存在がなければ、彼が努力を続けられる環境は生まれません。
努力は本当に自分の力か?
これらの要因を考えると、「自分が努力したから夢を叶えられた」と一概に言うのは難しいのです。努力を生み出す背景には、偶然や環境、他者の支えなど、多くの「他力」が関わっています。このことを親鸞は鋭く見抜き、「努力そのものもまた他力の賜物である」と説いたのです。
「他力本願」とは何を意味するのか?
親鸞が説く「他力本願」の本質は、次のようにまとめられます。
- 自力への執着を捨てること
人間は「自分の力で何とかできる」という思い込みに陥りがちです。しかし、親鸞はその執着が人間の傲慢さを生み、不幸を招くと考えました。 - 仏の力を信じて委ねること
親鸞のいう「他力」とは、仏(阿弥陀仏)の慈悲と救済の力です。「自分で何とかする」という考えを手放し、仏の力に身を委ねることで、心の平安と救いを得ることができると説きました。 - 自己否定ではなく、自己受容
他力本願は「自分を否定する」思想ではありません。むしろ、自分の限界や無力さを受け入れることによって、人間としての本質を見つめ直す教えです。
現代への教訓
現代社会では、努力や自己責任が重視される傾向があります。成功する人は努力家であり、失敗する人は努力不足だとされることも少なくありません。しかし、親鸞の教えは「努力できるかどうかも、全て他力によるものだ」という視点を与えてくれます。
つまり、失敗したからといって自分を責める必要はないし、成功したからといって過度に自信を持つのも違う――私たちは多くの要因に支えられ、共に生きている存在なのだ、ということです。
親鸞の他力本願の教えは、自己過信や自己否定に苦しむ現代人に、「もっと自分を受け入れていい」「自然の流れに身を任せてもいい」といった安心感を与えてくれるのではないでしょうか。悪人正機説の詳細解説
親鸞の思想の中でも象徴的な教えである「悪人正機説」は、彼の仏教観を深く理解する上で欠かせない概念です。この教えは、一般的な道徳観や宗教観を大きく覆すものであり、非常に独創的です。親鸞は、「善人ですら極楽浄土に行けるのだから、悪人が極楽浄土に行けるのは当然だ」と述べ、この言葉を通じて、人間の本質や仏教の救済の本質を鋭く問いかけています。
悪人正機説
「善人」と「悪人」の定義
親鸞が語る「善人」と「悪人」は、一般的な道徳的な善悪の区別とは異なります。それぞれの意味を以下に詳しく説明します。
善人
- 親鸞の言う「善人」とは、道徳的に優れている人や善行を積む人を指すわけではありません。
- むしろ、自分の力で煩悩に打ち勝つことができる、自力で悟りに至ることができる、と信じている人を指します。
- 彼らは、自分自身の努力や能力を信じているため、仏の力や他力の存在に気づきにくい存在です。
悪人
- 一方、「悪人」とは、道徳的に悪い行いをする人という意味ではありません。
- 親鸞が言う「悪人」とは、自分の煩悩に打ち勝つことができない、自分の力では悟りに至ることができない、と理解している人を指します。
- 彼らは、自分の無力さを受け入れているため、仏の救済や他力の重要性に気づきやすい存在です。
「悪人正機説」の意図
親鸞が「悪人正機説」を提唱した背景には、人間の限界を受け入れた上での「他力本願」の実践があります。この教えの意図を、以下の3つの観点から解説します。
1. 自己過信を戒める
親鸞は、人間が「自力」で悟りを得ようとすることを傲慢と見なしました。善人は、自分の努力や能力に頼りすぎるあまり、他者や仏の力を軽視してしまう傾向があります。この「自力への過信」が、彼らが真の救いに至る妨げになると考えました。
2. 自分の無力さを認める重要性
悪人は、自分の無力さを認めています。煩悩に打ち勝つことができない自分を受け入れ、その上で仏の力に頼る道を選ぶため、救いの道に近づきやすいと親鸞は説きました。これは、自分の限界を受け入れることで初めて他力の救済を理解できる、という思想です。
3. すべての人に救いを与える仏教の本質
親鸞の思想の根底には、「すべての人が救われる」という普遍的な救済観があります。善人でも悪人でも、煩悩を抱えた人間である以上、本来は救いに優劣はありません。しかし、自分を「善人」と信じる人は、自分の力に頼ることで仏の救済から遠ざかる。一方で、自分の力を捨てた「悪人」の方が仏の力を信じやすく、救済に近づけるのです。
「悪人こそ救われる理由」
親鸞の「悪人正機説」は、次のような理由で悪人が救われると主張しています。
- 自力に頼らないからこそ、他力を受け入れられる
悪人は自分の力ではどうしようもないことを自覚しているため、仏の力に頼る心が自然に生まれます。一方、善人は自分の力を過信し、他力を必要としない傾向があります。 - 自分の煩悩を素直に認められる
煩悩に打ち勝てない自分を認めることで、悪人は心を仏に向けることができます。自己否定を通じて、より深い信仰心を持つことが可能になります。 - 真の救いは他力によるもの
親鸞は、人間が自力で悟りに至ることは不可能だと考えました。仏の慈悲による救済こそが本質であり、それを理解できる悪人の方が救いの対象になりやすいのです。
現代における「悪人正機説」の意義
現代社会では、「自己責任」や「自己実現」といった言葉が重視され、成功や失敗はすべて個人の努力に帰されることが多いです。この風潮の中で、自分の限界や無力さを受け入れることは難しいかもしれません。しかし、親鸞の「悪人正機説」は、そんな現代人に次のような視点を提供してくれます。
- 自分の力に頼りすぎることの危うさを認識し、他者や環境の支えに感謝する心を持つ。
- 無理に「完璧な善人」になろうとするのではなく、不完全な自分を受け入れ、自然体で生きる。
- 救いや幸福は自力だけで得られるものではなく、多くの偶然や他力が関与していると理解する。
親鸞の「悪人正機説」は、人間の弱さや欠点を受け入れ、それを通じて真の救いを見出すという、深い洞察に満ちた教えです。この教えは、私たちが自己否定や失敗に苦しむとき、大きな安心感と解放感をもたらしてくれるのではないでしょうか。
まとめ
親鸞の教えは、努力や自力を過信することを戒め、仏の力を信じて身を任せることを説いています。現代では「努力が全て」と言われることが多いですが、親鸞の言葉に触れることで、「自然の流れに身を任せる」という新たな視点を得られるかもしれません。
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