“神の記録” に刻まれた日本人「ゼネラル・ヒグチ」の偉業
「ゴールデンブック」― ユダヤ教の世界ではこの名が神聖に扱われ、神の記録として語られる存在です。モーセ、アインシュタインといったユダヤ民族の偉人の名が記されているこの書には、意外な事実が隠されています。ユダヤ人だけが名前が刻まれると思われていたこの書に、実はある日本人の名も存在します。その名は、横浜でユダヤ難民を救った杉原千畝ではありません。彼の活躍の2年前、教科書には載せられず、学校でも教えられないヒーローが存在したのです。その人物とは、樋口季一郎。彼はどのようにして、ナチスドイツとの同盟関係下の日本でユダヤ人を救ったのでしょうか?背後には、我々日本人として誇りに思う心温まる物語が待っています。
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樋口季一郎の功績
1938年の3月、ヨーロッパは暗雲に包まれていました。アドルフ・ヒトラーが指導するナチスドイツの影響力が急激に拡大し、ユダヤ人への差別と迫害はピークに達していました。ナチスのイデオロギーはユダヤ人を国の不幸の原因としており、彼らが第一次世界大戦のドイツの敗北に関与しているとの誤った信念に基づき、ユダヤ人の排除を目的とする政策が続々と施行されました。ユダヤ人は暴行を受け、財産を没収され、日々の迫害はエスカレートして最終的にはホロコーストという惨劇へと繋がりました。
この状況下で、多くのユダヤ人はヨーロッパからの脱出を図りました。彼らの希望の地として選ばれたのは、中国の上海でした。当時、多くの国々が外国人の入国を厳格に制限している中、上海はイギリスの植民地として独自の開放政策を持ち、ユダヤ人をビザなしで受け入れていました。
この背景に、満州国ハルビン特務機関長、樋口季一郎が登場します。彼のもとに、氷点下30度のシベリア鉄道の駅に、2万人のユダヤ避難民が留まっているという報告が入りました。彼らはビザの問題で先に進めず、寒さと飢餓により多くの人々が死亡の危機に直面していました。樋口は日本とドイツの同盟関係、ドイツのユダヤ人迫害に対する過去の批判、そして自身と家族の安全という複雑な事情に直面しました。しかし、彼はその全てを度外視して、ユダヤ人避難民を助ける決断を下しました。
彼の決断により、救援列車がユダヤ人たちのもとへと送られ、彼らは助け出されました。子供たちは救援物資として提供されたミルクに群がり、多くのユダヤ人は涙を流して喜びました。樋口の果断な行動によって、2万人のユダヤ人は命を救われたのです。もし彼の判断が少しでも遅れていたら、多くの命が失われていたことでしょう。
その後の樋口季一郎
案の定、この出来事は日本とドイツの間で大きな外交的な摩擦を引き起こしました。ドイツの外相、立辺トロップからは、強烈な抗議の文書が送られてきました。この事件を受けて、日本陸軍内部でも樋口に対する反発が高まり、関東軍の中には樋口の処分を求める声も上がっていました。
樋口は関東軍司令部に召喚され、東條英機参謀長の前でその行動についての説明を求められました。樋口は、自分の行動に自信を持ち、堂々と答えました。「私の行動は正しかったと信じています。ドイツは我々の同盟国ですが、その政策がユダヤ人を死に至らしめるものであれば、それは人道に反するものです。日本とドイツは友好関係にあるが、日本はドイツの下位に位置する国ではない。東條参謀長、あなたはヒトラーの方針を支持し、弱者を攻撃することが正しいと思いますか?」。
東條英機は樋口の強い信念を理解し、その行動を認めました。「あなたの考えには合理性があります。私もこの件については不問にして、ドイツ政府にも人道的な判断としての行動だったと伝えよう」と応じた。
その後、樋口のこの行動はユダヤの歴史の中で伝説的に語り継がれるようになりました。ユダヤの高い敬意を示す「ゴールデンブック」にも彼の名前が第4位として刻まれました。歴史学者のルートワーク氏は、樋口の行動を世界史的な観点から高く評価しています。この事件の後、生き残ったユダヤ人の中には、アメリカやイスラエルの要職に就いた者もいました。
ヨーロッパでは多くの指導者たち、例えばチャーチル首相を含む多くが、ホロコーストの中でユダヤ人を守る行動を取ることができなかった。しかし、そのような厳しい時代に樋口は、勇気を持って大胆な行動を取りました。彼の行動は、日本の子供たちにも伝えられるべき価値のあるものです。彼のエピソードは、日本の伝統的な道徳心を私たち現代の人々に伝えるものかもしれません。
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