どうやって「悪魔のような悪人」は生まれるのでしょうか。意外にも、悪にあこがれる人々の中には、本来は善良であるとされる人が多いです。
凶悪犯罪といわれる犯罪記録とかみると、実際に起きた残酷な事件とか、大量殺人の記録はそのほとんどが、犯人の証言があまりに単純で乱暴な場合がほとんどであることが多い。
シリアルキラーのほとんどは、退屈で平凡な単なる乱暴者のおっさんが多く、日常的に見られる平凡で退屈な存在から変貌することが明らかになります。たとえば、歩きスマホをしている女性に体当たりするような無思慮な行動をする人は、その単純で粗暴な性質から、何も考えていない無知な人間であることが多い。
つまり「悪」とは凡庸でつまらないものといえるのです。
正義が悪に代わるとき
しかし、これらの行動背景には、しばしば「正義」という概念が複雑に絡み合っています。歴史を見れば自らの行動を正義と信じ、結果的に大きな悲劇を生んでしまうことがあります。
具体的には、20世紀に入ると、アドルフ・ヒトラーとヨシフ・スターリンという二人の独裁者が登場します。ヒトラーは「アーリア人種の優位性」という理念を掲げ、多くのドイツ人の支持を集めました。彼の政策は最終的にホロコーストという人類史上最悪の大量虐殺を引き起こしました。一方、スターリンはソビエト連邦の工業化と集団農業化を推進し、これが大飢饉を引き起こし数百万人の命を奪いました。
このように、一見正義に見える行動が、後に「悪」と認定されることは歴史上しばしばあります。正義と悪は一線を画すものではなく、時には正義が悪へと変貌することもあり得るのです。正義と悪の間には多様なロジックと動機が存在し、それが人間の行動の背後にある多面性を示しています。
簡単に言うと、ある正義が別の正義に負けて、悪と認定されるということになります。これで悪のカリスマというのはもともと正義の人たちが、後で「お前らは正義じゃない」といわれた場合がほとんどだということです。
私たちは「悪」と「正義」の間の境界がいかに曖昧であるか、そしてそれがどのようにして社会的な悲劇へとつながるのかを考える機会を得ることができます。正義とは残酷で多様であるため、その真の意味を理解することが、より公正な社会への鍵となります。
つまり、立場や時代、国によって正義と悪というのは全く違う意味を持ってしまうということです。
誰にとって悪であり正義なのかということだけであり、広い立場から見ると正義も悪もないのかもしれませんね。
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