読書:名著 賢さとは?橘玲著「バカと無知」より

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私たちは日常のやり取りの中で、知性や思考力が試されることがあります。

「真の賢さとは何か?」「賢さを決定づけるものは何か?」という疑問に思ったことはないですか?

研究が示すところによれば、人々は自分の能力を評価するのに大きな隔たりがあります。知能が低いとされる人々は、しばしば自分の能力を実際よりも高く評価してしまう過大評価する傾向にあります。これは自分自身の能力を適切に把握できないことから生じ、過剰な自信という形で表れます。

反対に、高い知能を持つ人々は、自身の能力を慎重に、時には過小評価することがあります。彼らは自己の知識や技能の範囲をより現実的に見積もり、学習と成長するための努力をします。

このような自己評価の違いは、対話や社会的な討論の場でも顕著に現れます。自信過剰な人々は、自らの意見や判断を強く主張し、他者の考えを軽んじられてしまい、力押しで議論を捻じ曲げられてしまいます。

一方で、自らを控えめに見せる賢い人々は、議論に深みと多様性をもたらします。しかし、その控えめな態度が原因で、彼らの重要な解決策などを軽視される結果となります。この状況は、価値あるアイデアや解決策が見過ごされるという非生産的な結果につながる可能性があります。

つまり、知能が低い人の意見が通ってしまうという結果を招いてしまいます。

今回のブログでは橘玲さんの「バカと無知」をもとに賢さとは何かについて書いていきます。

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認知能力による平等の差

橘さんの著作では、民主主義における議論が直面する一つの大きな問題について詳しく解説しています。それは、参加者間の認知能力の大きな差です。簡単に言えば、私たちが集まって話し合いをする際、人によって情報の理解度や論理的な思考能力が異なるため、全員が平等に話し合いに参加するという理想が実際には難しいことがあります。

例えば、ある地域での公園の利用方法についての公開討論会を想像してみてください。一部の参加者は、環境保護の観点から公園内でのイベントを制限すべきだと強く主張するかもしれません。他の人々は、地域コミュニティの活性化のためにもっと多くのイベントを開催すべきだと反対意見を持っているかもしれません。しかし、議論においては、すべての意見が平等に聞かれ、理解されるべきですが、実際にはそうなっていない可能性があります。

具体的には、高度なデータ分析や複雑な環境影響評価を引き合いに出す参加者がいる一方で、そういった情報を十分に理解できない参加者もいるかもしれません。この知的な差異により、情報の解釈や提案の価値判断が偏ってしまい、結果として議論が一部の人に支配されたり、誤った情報や不完全な論理に基づいた意見が強調されることがあります。これにより、合意形成のプロセスが歪められ、民主主義の理想から逸脱する可能性が出てきます。

橘さんの著書では、このような認知能力の差がどのように社会的対話を歪めるのか、そしてそれが民主主義の本質的価値をどう脅かすのかが書かれています。

人類の生存戦略

もともと人類は数千年前、私たちの祖先が生活していた小さな村や部族の中で、リーダーシップや主導権を巡って、それぞれが自分の価値をアピールしていたとします。このような環境では、自分の能力や貢献を少しでも大きく見せるが、生き残りや地位を確保する上で非常に重要でした。例えば、狩りが得意な人は自分の技術を大げさに話して、部族内での評価を高めようとするかもしれません。これは、他人を説得し、自分の地位を上げるための戦略として有効だったわけです。

このような行動パターンは、時間を経て進化の過程で私たちの遺伝子に組み込まれ、今日でも自分の能力を過大に評価する傾向として現れることがあります。これは、誰もが自己の能力を正しく理解しているわけではない、という現象の一例です。特に、自信過剰な人々はこの傾向が顕著で、自分のスキルや知識を実際以上に高く見積もることが多いのです。

しかし、賢明な人々はこのパターンを乗り越え、自分の能力をより慎重に、そして現実的に評価します。例えば、あるプロジェクトに取り組む際、賢い人は自分の強みと弱みを冷静に分析し、必要なら他人の協力を求めることで、より良い結果を目指します。また、他者との対話や議論においては、自分の意見だけでなく、他人の見解にも耳を傾け、バランスの取れた判断を下すことで、より正確な自己認識を持つことができるのです。

このように、私たちの祖先の生存戦略が今日の自己評価の方法に影響を与えているため、なぜ人々が自分の能力について過大あるいは過小評価するのかがそして、自己認識の正確さは、個人の賢明さと密接に関連しているのです。

ファスト教養の危うさ

橘さんの著作では、現代社会での教育や情報の取り扱いについても触れられており、特に「ファスト教養」について語られています。

この言葉は、ファーストフードが栄養面で物足りないのと同じように、インターネットやSNSから手軽に得られる情報が、深い理解や知識の獲得には必ずしも役立たないことを指しています。たとえば、Twitterの短い投稿やYouTubeの簡単な解説動画からは、すぐに情報を得ることができますが、それだけではその主題に対する深い理解や複雑な背景を完全に把握することは難しいのです。

橘さんは、本や長文の記事などをじっくりと読むことの重要だと言っています。例えば、歴史に関する知識を深めたい場合、短い記事や動画で得られる断片的な情報よりも、その時代背景や関連する出来事を網羅的に扱った本を一冊読み通すことの方が、はるかに理解が深まります。このような深い学びを通じて得られる知識は、自分の意見を形成し、社会的な議論に積極的に参加するための土台となります。

私たちが日々接する情報をどのように選び、どれだけ深く理解しようと努めるかは、個人の思考能力や知性を形成する上で極めて重要です。情報の質とその消化の仕方が、どのように自分自身の成長や社会での役割を決定づけるかを理解することは、現代社会において非常に価値のある教訓と言えるでしょう。

賢さについて

最後に触れたいのは、賢さについての橘さんの洞察です。彼の著作を読むことで、賢さが単に豊富な知識を持つことや、抜群の知能を有することだけを指すわけではないことが明らかになります。真の賢さとは、自分自身の能力と限界を精密に把握し、その自覚のもとで他人との交流や協働において、建設的かつ積極的に貢献する能力に他なりません。

具体的な例を挙げれば、チームプロジェクトでの一員として、自分にできることとできないことを明確にし、得意な分野で積極的に貢献しつつ、必要に応じて他のメンバーのサポートを求める柔軟さを持つことです。また、地域社会の問題に対して、自分の見解だけを押し通すのではなく、異なる意見を持つ人々と対話し、共通の解決策を見つけ出す努力をすることも含まれます。

このように、賢さは個人の内面だけでなく、他者との関係性の中での行動や姿勢にも深く関わっています。社会やコミュニティ内で健全な議論や対話を行い、多様な意見を尊重し合うことで、私たちはより良い理解と、全員が納得できる合意形成を目指すべきです。橘さんの著作は、知識を超えた賢さの価値と、それを社会の中でどのように活かしていくかを、私たちに示してくれます。

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