エドヴァルド・ムンク—その名を聞くと、たちまち「叫び」という画作の冷たく歪んだ顔が心に浮かび上がるかもしれません。この揺るぎない影響力を持つ画家は、後期印象派の動向を汲みつつ、独自の表現で苦悩と生の複雑さを描き出しました。しかし、彼の作品に対する理解は、「叫び」の一枚に留まるべきではありません。
ムンクの芸術は、幼少期のトラウマから影響を受け、病気、死、そして愛と別離の恐怖が反復して表現されたものです。このブログでは、彼の人生と芸術の旅をたどりつつ、叫びだけではないムンクの他の作品に光を当て、その深い意味を探求していきます。観る者の魂を揺さぶるムンクの世界を一緒に掘り下げていきましょう。
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エドヴァルド・ムンクの生涯
エドヴァルド・ムンクは、1863年にノルウェーの小さな町、ロッテンで医師の父親のもとに生まれました。幼いムンクにとって、家族は彼の世界の全てだったでしょう。しかし、その世界は早くも破られます。わずか5歳の時に母を結核で亡くし、9年後の14歳の時には愛する姉も同じ病で彼の目の前から去っていきました。この二度の悲劇は、若きムンクの心に深い暗闇をもたらし、彼の芸術的視界を形作る要となりました。
ムンクは17歳でオスロ(当時はクリスチャニアと呼ばれていた)の王立美術学校に入学しますが、早くもその才能は批判の的となりました。才能が認められずにいた苦しみは、彼にとってまた一つのトラウマとなりました。26歳でノルウェー政府の奨学金を得てパリに渡ったムンクは、新たな可能性を求めて旅立ちますが、パリ到着後わずか1ヶ月で愛する父も亡くしてしまいます。心の支えを失ったパリでの3年間は、ムンクにとってさらなる苦悩の期間でしたが、この時期は彼は彼と同じ様な不安と葛藤の画家「ゴッホ」の影響を受け、芸術性を一層深めることになります。そして自身の内面と向き合い続けました。
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この頃あることについて書かれたメモが残っています。「音楽、読書する人物、編み物をする女というような絵はもいらない。呼吸し、感じ、苦悩し、愛する。そんな生身の人間を描かなければならない」とテーマに生身の人間のリアリティを吹き込む決意を固めました。ノルウェーに帰国後の展示会は、わずか1週間で打ち切りという惨めな結果に終わりましたが、ムンクはめげずに自らの芸術を追求し続けました。当時としては先進的すぎる彼の作品は、すぐには理解されませんでしたが、彼の情熱と献身はやがて彼を19世紀末の最も重要な画家の一人としての地位を確立することにつながりました。
エドヴァルド・ムンクはベルリンでより高みへと登っていきます。この街で、彼は異なる芸術家たちと交流し、その中から「叫び」という名で知られるようになる数々の傑作を生み出しました。「叫び」は、まるで悲鳴を上げるような赤く染まった空、不気味な背景と、耳を塞ぎながら橋の上に立つ苦悶する人物が特徴の絵画で、その背後にはオスロフィヨルドの風景が広がっています。この地はノルウェー南東部に位置し、ムンクにとって多くの意味を持っていたでしょう。彼の作品は自身の体験と感情の直接的な表現で、しばしば厳しい自己分析に基づいています。
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ムンクは自身の日記に、その象徴的な絵について書かれていました。ある夕暮れ、友人たちと散歩をしていた際、沈む太陽と共に突然、空が血のように赤く変わり、深い疲労感と共に不安に襲われ、大地が火のように見えたと綴っています。彼の友人たちは歩みを続けましたが、ムンク自身はそこに立ち尽くし、自然から発せられる「無限の叫び声」を聞いたと書かれていました。この幻視は、彼の内なる恐怖と不安を外に投影したものでしょう。
ムンクが「叫び」の中央の人物として自身を描いたとされる日記の記述からは、彼の内面世界と創作へのアプローチが垣間見えます。また、彼のインスピレーションがパリ万博で目にしたペルーのミイラから来ている可能性があるのではと言われています。ミイラの歪んだ形状と古代からの悲鳴が、ムンクにとってこの強烈なイメージを作り上げる触発となったという説です。芸術史において、このような深遠なバックストーリーは、一作品の背後にある豊かな歴史と文化的を反映しており、ムンクの「叫び」を単なる画像以上のものにしています。
エドヴァルド・ムンクの画業は、個人の感情と深い精神分析を描くことで際立っています。友人であり影響を受けた画家たちとの親密な交流は、彼の作品にも色濃く反映されていたことが伺えます。例えば、彼の親しい仲間の一人がムンクの肖像を元に「ブドウの収穫」という作品を描いたとされています。これは「人間の悲劇」とも称される作品であり、ムンク自身の悲しみや苦悩が表現されている可能性があります。
ムンクの「マドンナ」という絵画は、半裸の女性が特有の色彩で描かれており、その表現方法はムンクの独特なスタイルを示しています。英語で聖母マリアを「マドンナ」と呼ぶことから、一部の評論家はこの作品が聖母を描いたものではないかと推測しています。しかし、聖母マリアをこのような官能的かつ原型から外れた形で描写するのは異例であり、実際に聖母を題材にしたのか、それともムンクの愛人や他の女性をモデルにしたとも言われています
さらに、彼の「思春期」という作品では、ベッドの端に座る裸の少女が描かれています。この少女は大きな目を見開き、口を閉じた状態で、背後には窓から差し込む光によって不気味な影が投げかけられています。ここに描かれた少女の姿からは、不安や恐怖、そして性への目覚めや心身の精神的な成熟が感じられます。一方で、ムンクが家庭生活を望まず、性的な欲求の発散の場としてこの少女を描いたと見ることもできます。この視点からは、少女はムンク自身の内面を映し出しているとも解釈され、その葛藤や欲望の深層を表現した作品と見ることができます。
エドヴァルド・ムンクは、その情熱的な愛情生活にもかかわらず、結局のところ独身を選んだという興味深い人物です。彼の34歳の時、彼は自然豊かなノルウェーの海沿いの村、オースゴールを生活と創造の中心地として選びました。そこでは、ヨーロッパ各地を行き来しながら、彼の著名な作品群「生命のフリーズ」を制作しました。「生命のフリーズ」は、ムンクの内面に渦巻く幅広い感情を基にしており、その中には絶望、不安、嫉妬、羞恥といった、人間の基本的な情動が織り込まれています。これらの作品群はムンクにとって、彼の感情的な景観を形にした長期間にわたるプロジェクトでした。
この時期に入るとムンクの収入は安定し始め、彼はノルウェーのフィヨルドのそばに、自身の小さな領地を含む小屋を購入しました。この場所を彼は「ハッピーハウス」あるいは「サマーハウス」と呼び、毎年夏の間そこで時間を過ごすようになりました。ハッピーハウスは単に彼のリゾート地であるだけでなく、彼の創造性を養い、精神的な安息を得るための避難所であり、また、自身の感情的な出発点となる場所でした。この屋敷と周囲の自然環境はムンクにとって、彼が自分自身と対話し、絵画を通じて心の内を表現するためのインスピレーションの源であったと言えます。
36歳の頃、エドヴァルド・ムンクはテューラ・ラーセンという女性と恋愛関係を築き始めましたが、この関係は複雑なものでした。テューラは「生命のダンス」という作品に赤いドレスを着た女性として描かれており、彼女自身が結婚を望んだものの、ムンクは何度も彼女の提案を断りました。ムンクの伝記研究者たちは、彼が子供の頃に経験したトラウマ、家族の悲劇、身体の不調、そして精神的な疾患が、彼が家庭生活を受け入れられなかった理由の一部かもしれないと推測しています。
ムンクとテューラの関係は、時には物理的な争いにまで発展したことがあり、ある時、テューラが自分を撃つと脅しながら銃を持ち出し、もみ合いの中で銃が誤って発射され、ムンクは手に怪我をするという事件が起きました。この事件は二人の関係の終りを意味し、彼らはその後、別れることとなります。
40歳頃になると、ムンクはドイツでの仕事を中心に、様々な友人や知人のために作品を描いたり、依頼作品を完成させたりしていました。この時期に、彼はイギリスのバイオリニスト、エヴァ・ムードッチと出会い、彼女に強い愛情を抱くようになります。エヴァは「ブローチをつけた夫人」という作品のモデルとなりました。この時期にムンクが描いた他の作品としては、「リンで博士と4人の息子」が挙げられます。この絵は、長く続く影響力のある愛情や親子関係の持続を表現していると解釈されることもあります。
45歳の時、エドヴァルド・ムンクは過度の飲酒と日常生活のストレスの蓄積により精神的に病み、精神病院に入院することになりました。彼は約8ヶ月間の入院生活を送り、その期間中に精神状態が改善された結果、退院後には、彼の作品のトーンが以前よりも明るく、カラフルなものに変化しました。彼が描くテーマも以前の暗いものから、遊ぶ人々の姿などの楽しいシーンへと移行し、スタイルがこれほどまでに変わったために、他人が描いたのではないかと誤解されるほどでした。彼のこの時期の作品の変化は、「星月夜」などの作品で特に顕著に見ることができます。
ムンクはその後、生涯の残りの約20年をエーケルイという場所に購入した土地でほぼ独りで過ごしました。晩年は、穏やかな絵を多く描いており、とりわけ自らが飼っていた馬をモデルにした作品が多くなっています。しかしながら、この時期はナチス・ドイツがノルウェーにも進出し、当時の敵国であったフランスとともに、文化を愛するムンクもその攻撃の影響を受けることになりました。ナチスによる芸術作品の押収や破壊を恐れ、自宅にこもって暮らすようになり、窓ガラスが割られるなどの被害を受けましたが、彼の生きる意志は折れませんでした。ムンクは1944年、80歳の誕生日から1ヶ月後に気管支炎で亡くなりました。
彼の人生は、困難な幼少期と多くの逆境に見舞われたものでしたが、彼は終生、自己表現を通じて生きることをやめることはありませんでした。現在でも、ムンクの作品を見るときは、彼の激動の生涯と彼の芸術への情熱に思いを馳せるでしょう。
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