仏教・哲学:菩提達磨の語る『禅とは何か?』

哲学

突然ですが皆さん、悩みや不安、苛立ちや悲しみなど、日々さまざまな感情に振り回されていませんか?そんな人々に対し、禅の思想を広めた人物・菩提達磨(ボダイダルマ)はこのように言いました。

「君たち、いつまで思考に振り回されているんだ。君たちは言葉に囚われ、思考に囚われ、考えても意味のないことにアホみたいに振り回されてるだけなんだよ。いい加減、思考から離れなさい。」

こんな感じで、私たちは言葉、そして思考に囚われているせいで、考えても意味のないことを考え、そのせいで感情に振り回されている、と彼は言いました。

ですが、そんなことを言われても、皆さんはこのように思うかもしれませんね。

「え?何言ってんのあなた。思考から離れる?思考停止しろってことか?そんなんただの馬鹿じゃないか。適当なこと言わないでくれ!」

こんな感じで、「考えることをやめるなんて、バカになれと言われているように感じる」かもしれません。ですが、達磨はこう続けます。

「君らさ、なんか勘違いしてないか?人間の思考にできることなんて大してないだよ。思考を過信しすぎなんだよ。思考にできることは、不安や悩みを生むことだけなんだ。」

彼は、私たちが「思考に価値がある」と思いすぎているが、実際には思考にできることなんて大したことはないと説きます。

そしてこう言います。

「人間は考えれば考えるほど苦しくなるだけなんだよ。思考から離れ、流れに身を任せることで正しい道が見えてくるんだよ。」

このように彼は、「言葉を捨てることこそが禅である」と考えました。そして、その思想はスティーブ・ジョブズやハイデガーなど、世界的な偉人たちにも影響を与えました。

それでは今日は、達磨が語る「禅とは何か」という話を、ざっくり解説しましょう。

禅の歴史

まずは禅の歴史について、ざっくり解説します。

禅とは、日本では置物として有名な「だるま」が元となった思想です。この「だるま」の由来は、インドの僧侶・菩提達磨(ボダイダルマ)です。達磨は母国インドで修行をしていましたが、師匠が亡くなる直前、こう告げられました。

「達磨、お前さ、中国行って仏教広げてきてよ。」

突然のミッションを与えられ、達磨は中国へ向かうことになります。当時、中国にはすでに仏教が広まっており、インドの僧侶が来ると知った中国の皇帝は、すぐに達磨に面会を求めました。皇帝はこう言います。

「わしは中国に寺をたくさん建て、多くの僧侶を育てたんだよ。こんなに努力したんだから、仏様のご利益があるだろう?」

これに対して、達磨はこう答えます。

「え?そんなものありません。」

皇帝は驚きつつも思い直し、さらにこう尋ねます。

「じゃあ仏教で大事なことって何なのかな?悟りってどんなものなんだ?」

達磨の答えは、これまた衝撃的でした。

「大事なものなんかないよ。悟りは何もないことなんだよ。」

これを聞いた皇帝はイライラし、こう言います。

「お前、本当に仏教の僧侶なのかよ!誰なんだお前は!」

しかし、達磨の答えは変わりません。

「知らん。」

このように、まったく話がかみ合いませんでした。というのも、達磨が最も大事だと考えた仏教の教えは「言葉を捨てること」だからです。彼はこう思いました。

「君たち、何にも分かってないじゃないか。釈迦の哲学が全然伝わってないじゃないか。」

中国で広まっていた仏教が、釈迦の本来の哲学からかけ離れていることに失望した達磨は、自ら行動で示そうと、少林寺に住み、9年間も壁に向かってただ座り続けました。いわば「言葉を捨てること」を伝えるために、実際に言葉を捨てることを行動で示したのです。

しかし、当然そんな行動が伝わるはずもなく、周りの僧侶たちは失望します。「本場の僧侶が仏教を教えてくれる」と期待していたのに、何も教えてもらえなかったからです。

その中で、一人の人物、慧可(エカ)が「なんとしても教えを乞いたい」と覚悟を示します。その覚悟とは、自らの腕を切り落とし、達磨に差し出すことでした。この行動を見て、ようやく達磨は壁に向かうのをやめます。なぜなら、達磨は「多くの人に仏教を広めるつもりはなく、伝えるに値する人物だけに教える」と考えていたからです。

慧可を弟子として迎えた達磨の教えは、少数の者たちに伝えられ、その後、栄西(えいさい)や道元(どうげん)という人物によって日本へと広まりました。栄西は臨済宗(りんざいしゅう)を、道元は曹洞宗(そうとうしゅう)を開きました。

ちなみに、置物の「だるま」が手足のない姿をしているのは、達磨大師が9年間も壁に向かって座禅を続けたために手足が腐ってしまった、という言い伝えがあるからです。ただし、実際には「達磨が着ていた袈裟(けさ)に手足が隠れて見えなかった」ためとも言われています。

言葉を捨てる

では、達磨が説いた「言葉を捨てる」とは一体どういうことなのか、詳しく解説していきます。

達磨の弟子である慧可(エカ)は、何年も修行を続けていましたが、なかなか成果を感じられず、ある日達磨にこう尋ねました。

「師匠、もう修行を始めて何年も経ちますが、私の心にはまだ不安が渦巻いています。この心を一体どうすればいいのでしょうか?どうしたら悟りを得られるのでしょうか?」

これに対して、達磨はこう答えました。

「心に不安が渦巻いているだと?じゃあ、その心を今すぐ出してみろよ。俺がぶっ叩いて壊してやる!」

慧可はその返答に驚きますが、このやり取りには深い意味が込められていました。

達磨は、「心なんてものはただの言葉に過ぎない。不安が渦巻くというのも、どうしようもない脳の反応に過ぎない」と考えていました。つまり、「実態のない心」をどうにかしようとするから苦しむのであり、心なんてものがあると思い込むから振り回されるのだ、と。

仏教的に言えば、どうにかしようと執着するからこそ、どうにもならないことに苦しむのです。

たとえば、モテたいと考える人を例にしましょう。その人は「モテるために」と美容院に行き、高級ブランドの服を買い、会話術を学ぶなど、さまざまな努力をします。しかし、どれだけ努力してもモテなかった場合、努力が報われないという現実に苦しむことになります。また、仮にモテるようになったとしても、もっとモテたい、もっと理想的な自分になりたいと欲望が続き、結局また苦しむことになるのです。

つまり、人は「欲望や執着によって苦しむ」という構造に囚われているのです。

ここで、こう思うかもしれません。

「そりゃあ、執着するから苦しむのは分かるけどさ、それでも人間だから求めちゃうんだよ!」

その通りです。しかし、達磨はだからこそ「言葉を捨てろ」と説きました。それは、私たちが「言葉」によって煩悩に支配されていると考えたからです。

言葉が生む執着の正体

たとえば、「家族」という言葉があります。この言葉には、「家族は大切な存在であるべき」「家族とはかけがえのないもの」というイメージがつきまといます。しかし、もし「家族」という言葉の枠組みがなかったらどうでしょうか?

そうなると、家族は「たまたま近くにいる人たち」でしかなくなります。親も「ただ自分を産んだ人」、兄弟も「たまたま同じ親から生まれた人」という認識に変わり、家族への執着が薄れます。

また、「カレー」という言葉を例に挙げてみましょう。「カレー」とは通常、カレールーにじゃがいもやにんじん、玉ねぎ、肉などを煮込んだ料理です。しかし、「カレー」という言葉がなければ、カレー粉を入れ忘れてもそれはただの「名前のない料理」になります。失敗という概念すらなくなるのです。

このように、言葉はあらゆるものに枠組みを作り、その枠組みが執着や苦しみを生むと達磨は考えました。

言葉を捨てるとは?

達磨が目指したのは、「言葉によって区切られた世界」を超え、すべてが一体となった「無分別智(むふんべつち)」の境地に達することです。彼はこう考えました。

「私たちは言葉によってあらゆるものを区切り、その区切りによって生き方を決められている。そのせいで不満や苦しみが生まれる。」

たとえば、「私」という言葉があるから、「私」と「他者」が生まれます。そして、「私」と「あなた」が分けられることで、比較や競争が生まれます。達磨はそのような「言葉による分断」を超えた境地を目指したのです。

臨済宗を日本に広めた栄西も、こう述べています。

「言葉があるから思考が生まれる。思考があるから悩みが生まれる。思考を捨てることで、無分別智に達することができる。」

言葉を捨て、思考を捨てることで、私たちは余計な悩みから解放されるのです。

思考を手放すことの実例

ここで、思考を捨てることがどのように私たちの生活に影響を与えるか、具体例を挙げてみましょう。

達磨の弟子である慧可は、何年も修行を続けた末に達磨から重要な教えを受けました。それは「心に執着しない」というものです。彼はその後、心を俯瞰する方法を習得しましたが、この教えは現代でも応用可能です。

たとえば、私たちは日常生活の中で、何かを決断するたびに頭を悩ませることがあります。今日の晩ご飯を決めるときでさえ、「昨日はカレーだったし、その前は肉じゃがだから、今日はうどんにしよう」など、あれこれ考えます。しかし、この思考のプロセスをよく見てみると、「うどん」という選択肢が突然浮かび、それに対して「いいじゃん」と思うだけであることに気づきます。

実際には、「選択肢が浮かんで、それに納得するだけ」ということがほとんどです。これを「思考して決めた」と勘違いし、余計な思考を重ねてしまうのです。

思考を手放す訓練

達磨が言った「言葉を捨てる」とは、思考を止めることではありません。それはむしろ、思考が勝手に働くのを認識し、その結果に執着しないという態度を指します。

たとえば、私たちは仕事や人間関係の将来について考えることがあります。そして、その思考が「このままでいいのか」「どうすればもっと良くなるのか」という不安を生み出します。しかし、達磨の考え方を取り入れると、「思考はただ脳が勝手に働いているだけ」と受け止めることができるようになります。

これを実践するためには、以下の方法が有効です。

  1. 瞑想を行う
    座禅を組み、自分の呼吸に集中することで、思考を俯瞰的に観察します。思考が浮かんでも、それを追いかけるのではなく、「ああ、こんなことを考えているな」と気づき、そのまま流していきます。
  2. 俯瞰視点を持つ
    自分を映画の登場人物のように捉え、「今、この主人公(自分)はまた悩んでいるな」と、あくまで他人事として観察します。このように、感情に直接巻き込まれない訓練を重ねることで、思考に振り回される頻度を減らすことができます。
  3. 言葉を手放す
    自分の中で「これは○○であるべきだ」という思い込みをなくし、「そういうものもある」と受け入れる練習をします。たとえば、「自分は成功しなければならない」という考えに囚われているなら、「成功とは何かを考える必要があるのか?」と自問し、その定義を曖昧にしていきます。

現代における「言葉を捨てる」実践

現代では、SNSや情報過多の時代が私たちの思考をさらに忙しくさせています。常に他人と比較し、「もっと良くならなければ」という思考に駆られます。しかし、達磨の教えに従えば、これらの思考を手放し、「今この瞬間」に集中することが重要です。

例えば、未来や過去を表す言葉を持たないアマゾンのピダハン族は、「今しか見ない」生活を送っています。彼らは未来を憂うことも、過去を悔やむこともありません。その結果、非常に幸せに生きていると言われています。

最後に

達磨の禅の教えは、「心を動揺させないこと」を目指しています。そのためには、「言葉や思考に囚われない」ことが大切です。達磨が目指した「無分別智」とは、あらゆるものを一つとして捉え、分け隔てなく見ることです。

私たちも日常の中で、「言葉を捨てる」「思考を手放す」という考え方を取り入れることで、より心穏やかに過ごせるようになるかもしれません。

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