天才と呼ばれた男:石原莞爾

歴史

石原莞爾という名前を聞いたとき、皆さんは何を思い浮かべますか?「満州事変を引き起こした、陸軍で最も危険な男」、それとも「東京裁判での忘れがたいエピソードの主役」といったイメージでしょうか。しかし、彼はただの軍人ではありませんでした。思想家としての顔も持ち合わせ、その天才的な行動はしばしば予測不可能なもので、時に周囲を驚かせました。本記事では、そんな石原莞爾の数々のエピソードを交えながら、彼の人となりに迫ってみたいと思います。

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石原莞爾の生い立ちと経歴について

石原莞爾は、明治22年(1889年)1月18日に山形県鶴岡市(旧西川郡鶴岡町)で生まれました。ただし、戸籍上の生年月日は1月17日と記載されています。彼の父親は警察官で、警察署長を務めたこともあります。石原は6男4女のうちの3番目の男子として生まれましたが、長男と次男が幼少期に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられました。

石原莞爾は二度結婚しています。最初の妻は山形県内の裕福な家庭の娘で、石原が財産目当てで急いで結婚したとされますが、結婚生活はわずか2ヶ月で破綻しました。二度目の妻は陸軍査察官の娘で、東京出身でした。その時、石原は陸軍大学で学んでいました。

石原莞爾の教育については、明治28年(1895年)に厚木神学校の2年生として特別に編入されました。これは、校長が彼の能力を認め、入学前の自宅での準備学習を理由にして直接2年生からのスタートを認めたからです。その後、父親の転勤に伴い、彼は数回転校しました。明治34年(1901年)には山形県立庄内中学校(現在の県立鶴岡南高校)に入学しましたが、明治40年(1907年)6月に陸軍に入隊し、同年12月には陸軍士官学校に進学しました。大正4年(1915年)11月には陸軍大学校に入学し、3年後に卒業しました。在学中、彼は成績が優秀で、天皇からの表彰も受けましたが、主席になることを避け、意図的に次席で卒業したとされます。

彼はまた、陸軍大学校の入学試験で機関銃の有効な活用法を提案し、飛行機への武装を提案したことで知られています。これは、当時の日本軍がまだ飛行機に機関銃を装備していなかった時期のことであり、彼の先見の明を示すエピソードとなっています。

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石原莞爾:陸軍大学校卒業後から満州事変への道のり

石原莞爾は陸軍大学校を優秀な成績で卒業した後、大正8年(1919年)4月に大尉に昇進しました。その後、大正13年(1924年)8月には少佐へと昇進し、さらに昭和3年(1928年)8月には中佐に昇格しました。この期間中、彼は国際的な見識を深めるため、中国、ドイツ、スイスへの出張や赴任を経験しました。

石原の非凡な才能と独自の思考は、しばしば陸軍の上層部との間で理解されず、彼の扱いに頭を悩ませることもありました。彼の直接的で革新的なアプローチは、保守的な軍の体系においては時として受け入れられず、その結果としてしばしば異動や配置転換が繰り返されました。このような状況が、彼を「たらい回し」と表現される原因となり、そのキャリアにおいて一定の挑戦をもたらしました。

これらの経験は、石原が後に展開する満州事変への道を形作る重要な要素となり、彼の軍事的および政治的手腕が注目される契機となりました。

柳条湖事件と満州事変の概要

満州事変は、昭和6年(1931年)9月18日に起きた柳条湖事件が発端となる武力紛争です。この事件は、満州(現在の中国東北部、吉林省、遼寧省、黒龍江省から成る地域)で発生しました。柳条湖事件は、南満州鉄道の線路が爆破された事件で、この爆破は関東軍による自作自演であったとされています。この時、石原莞爾中佐と板垣征四郎大佐が計画を主導しました。

事件直後、関東軍は、中国軍団の破壊工作だと主張し、軍事行動を開始しました。この軍事行動は日本政府の公式方針に反しており、関東軍が独断で行ったものです。日本政府は当初、紛争を拡大せずに収束させる方針を掲げていましたが、陸軍はこの方針に反対し、軍部大臣は援軍を送らなければ辞任するとまで脅しました。このため、最終的に政府は関東軍への援軍派遣を承認しました。

戦闘中、関東軍は数で劣っていましたが、敵軍が低い戦闘意欲を示し、広い範囲に分散配置されていたため、石原の戦術に従って効率的に打撃を与えることができました。昭和7年(1932年)2月までに、関東軍は満州全域を制圧しました。

この一連の出来事により、陸軍内では「結果さえよければ手段を問わない」という雰囲気が育まれ、暴走が黙認される状況が生まれました。同年3月、満州国の建国が宣言され、日本の影響力がこの地域にさらに強まることとなりました。

満州国建国の経緯と石原莞爾の役割

昭和7年(1932年)3月、関東軍は国際社会からの批判を回避するために、満州を単純な日本の領土とするのではなく、独立した政権として「満州国」を樹立することを決定しました。この新たな政権のトップには、中国で清王朝の最後の皇帝であった愛新覚羅溥儀が選ばれました。清王朝は異民族による王朝であり、その基盤は満州にありました。

しかし、この動きに対し中国政府は国際連盟に提訴し、国際連盟はイギリスの伯爵、リットンを長とする調査団を派遣しました。調査団は約1ヶ月にわたり満州を調査し、その結果を基にした報告書が国連に提出されました。結果として、国連は満州国の存続を認めないという決定を下し、昭和8年(1933年)3月には日本が国連からの脱退を表明することになりました。

石原莞爾と満州国

石原莞爾自身は、関東軍が満州を日本に併合または同化することを目論んでいたとは異なり、彼の視点は一貫して異なっていました。石原は昭和2年(1927年)に「現在及び将来における日本の国防」を執筆し、満蒙領有論を展開しています。その後、昭和3年(1928年)に関東軍の参謀として満州に赴任し、柳条湖事件を起こすことで事態を先鋭化させました。しかし、満州国建国後は「王道楽土・五族共和」をスローガンに掲げ、領有ではなく万民の独立を主張する方向にシフトしました。この変化は、領有が最初から単なる方便であった可能性を示唆しています。やがて、石原のこれらの考えは関東軍にとって都合が悪くなり、昭和7年(1932年)には石原を満州から遠ざけるためにジュネーブで開催される軍縮会議の随行員に任命されました。

石原莞爾の思想と東亜連盟、日連主義

石原莞爾は、満州国における満州人自身による統治の必要性を主張しました。彼のこの考えは、東亜連盟と日連主義という二つの理念に根ざしています。

東亜連盟

東亜連盟は、昭和14年(1939年)11月に石原によって設立された国家社会主義団体です。この団体の目的は、日本、満州、中国を含む東アジア地域の政治的独立と国防、経済の一体化、文化交流を推進することでした。しかし、東亜連盟は昭和21年(1946年)に連合国軍最高司令官(GHQ)によって解散させられました。

日連主義

日連主義は、石原が国中会という組織に所属していた時に提唱した思想で、日本の特別な国家性を強調し、政治、経済、文化の各領域においてその枠組みを広げることを目指していました。この思想は、日本が南無妙法蓮華経(法華経)の教えに基づき、特別な国であるとする観点から発展し、最終的な世界戦争に向けての準備として満蒙(満州と蒙古)の獲得が不可欠であるとしていました。また、中国とは良好な関係を築いていくことも重要視されていました。

2・26事件と石原の役割

昭和11年(1936年)2月26日に発生した2・26事件において、石原は軍の本部勤務中であり、このクーデター未遂事件の鎮圧に関与しました。この事件は、若手将校による昭和維新の名のもとに行われたもので、高級将校が反乱軍によって行動を阻まれる中、石原はその中立的な立場から行動することができました。反乱軍は天皇に直訴しましたが、昭和天皇の激怒により多くが法的制裁を受ける結果となりました。

このように、石原莞爾の思想と行動は、時代の複雑な流れの中で形成され、多大な影響を与えたものです。彼の生きた時代にのみ理解される特有の状況が多く存在し、その中で彼は独自の哲学と行動を展開していきました。

石原莞爾と東条英機の確執

昭和12年(1937年)、石原莞爾は満州における関東軍の副長に任命されました。しかし、当時の関東軍長であった東条英機との間で、満州に関する将来構想について意見が合わず、確執が生まれました。石原は満州国が満州人自身によって統治されるべきであり、それを通じてアジアにおける日本の影響力を育てるべきだと主張しましたが、東条はこの観点を理解することはありませんでした。石原は東条を「条上兵」と呼び、軽蔑するほどに関係が悪化しました。

太平洋戦争中、石原は東条と面談し、戦争の指導について意見を求められた際に、「君には戦争指導などとても無理なので、1日も早く首相をやめるべきだ」と発言しました。このような直言もあり、石原と東条の間の確執はさらに深まりました。戦後、この確執が原因で石原が戦争犯罪人として起訴されなかったとも言われています。

昭和16年(1941年)3月、東条の影響もあるかもしれない体調不良を理由に、石原は予備役に編入され、事実上陸軍を去りました。彼の最終階級は中将でした。その後、石原は主に執筆と講演活動に専念しました。

石原莞爾と東条英機の間の確執は、その後の日本の歴史において重要な影響を与えた要素の一つであり、二人の異なるビジョンと個性がぶつかり合った結果と言えます。

石原莞爾と東京裁判

石原は戦犯として起訴されることはなかったものの、極東国際軍事裁判(東京裁判)の証人として出廷しました。裁判中、彼は日本の戦争責任を遡って問う提案に対し、ペリーを法廷に呼ぶべきだと皮肉を述べ、「日本は鎖国しており、朝鮮も満州も不要だった。略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカなどの国だ」と主張しました。また、誰が最大の戦争犯罪人かと問われた際には、トルーマン大統領を指名し、「広島と長崎に核兵器を使用して無差別大量殺人を行ったから」と述べました。これらの発言は、日本国内で多くの支持を集め、拍手喝采を受けました。

石原莞爾の東京裁判での立ち位置と発言は、彼の独特な視点と強い意志を反映しており、日本だけでなく国際社会に対しても深い印象を残しました。

石原莞爾の晩年と逸話

石原莞爾は晩年を山形県にある西山農場で静かに過ごしました。政治や軍事の表舞台からは退き、農場での穏やかな生活に専念していました。昭和24年(1949年)8月15日、膀胱がんと肺気腫の病状が悪化し、60歳で亡くなりました。

石原の人物像

石原はその生涯を通じて、相手が誰であれ、自らの意見を遠慮なく述べることで知られていました。また、無能な者に対しては容赦がなく、関東軍時代には橋本虎之助中将を「猫」と呼んで軽蔑していたとされます。その一方で、彼の率直な性格やリーダーシップを慕う者も多く、多くの同僚や部下から尊敬されていました。

石原の兵士への配慮

石原は兵士の生活環境を改善するために積極的な取り組みを行いました。彼が連隊長を務めていた第4連隊では、内務犯に対する私的制裁を禁じ、兵士の食事を料理人に作らせることにしました。また、飲料水の質を向上させるために循環式の浄化装置を導入するなど、兵士が快適に生活できるように心がけていました。

農場でのうさぎ飼育

連隊長時代、東北地方出身の貧しい家庭の者が除隊する際に、生活の助けとなるようにとアンゴラうさぎを絹糸産業用として持たせていたというエピソードもあります。これは、石原が部下の将来を気にかけていた一例です。

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