近年、日本に対する否定的な言葉があちこちで聞かれるようになりました。オワコン、政治の迷走、高齢化社会、そして国際的な影響下にあるといった認識が、多くの人々の間で広まっています。時折、私たち自身もこの国の未来を憂い、心配する瞬間があるかもしれません。
しかし、そうしたネガティブな意見に飲まれることなく、私たちは日本の誇るべき偉人たちを振り返り、彼らからインスピレーションを受けることが重要です。今日、私はそのような一人の人物、アラビア太郎に焦点を当ててみたいと思います。彼は戦後日本の復興を支えるために、サウジアラビアとクウェートから石油採掘の権利を獲得し、日本に貴重な資源をもたらした人物です。
このブログでは、アラビア太郎の生涯を通して、彼がどのようにして困難を乗り越え、目標を達成したのかを探ります。彼の物語は、私たちが自国に誇りを持ち、前向きな姿勢を持続させるための一つの手がかりとなるでしょう。それでは、アラビア太郎の驚くべき人生の旅に、一緒に迫ってみましょう。
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幼少期
山下太郎は1889年、明治22年に秋田県大森町でこの世に生を受けました。幼少期は祖父母の元で過ごし、健やかに成長しました。彼の父、正春は秋田県を出て横浜で商売を始め、経済的に成功を収めていきました。正春は太郎が生まれると、彼を秋田県の実家に預ける決断をしました。太郎はそこでしっかりと育ち、小学校に進学しました。
その後、太郎は家族と共に東京へと移り住みます。彼の同級生たちの多くは小学校卒業と同時に社会へと出ていく中、太郎は慶応中学校へと進学しました。これは、父親の仕事が順調であり、経済的に恵まれていたため可能でした。
当時の日本は明治政府による積極的な資本主義政策のもと、急速に社会が変化していました。太郎はこの時代の変革を肌で感じながら、「俺は必ずでっかいことをやるぞ」という強い意志を持ち続けました。
高校卒業後、彼は札幌にある学校へと進学します。北海道は当時、開拓の最前線であり、パイオニアスピリットに満ちあふれていました。太郎の両親は彼の北海道進学を反対しましたが、彼の決意は変わりませんでした。
北海道は明治2年から本格的に開拓が始まり、政府はアメリカから農業の専門家を招いて農業の基盤を築きました。しかし、人手不足のために多くの成果が生かされない状況が続いていました。札幌農学校はこの背景の中、明治6年に開校し、アメリカ式農業を教えるためにアメリカからクラークが招かれました。クラークはキリスト教の信者でもあり、彼の開拓者精神は札幌の学校に受け継がれ、多くの本土から来た若者たちを引きつけました。
特に、何か大きなことを成し遂げたいという野望に燃える若者たち、例えば太郎のような人々にとって、この学校とクラークの教えは非常に魅力的でした。「Boy, Be Ambitious(少年よ、大志を抱け)」という有名な言葉は、クラークが彼の学生たちに残したメッセージであり、太郎にとっても大きな影響を与えることとなりました。
青年期
青年期の太郎にとって、極めて重要な影響を与えた人物が江原素六でした。素六は、太郎の農学校時代の同級生の父親であり、麻布中学の創設者であり政治家でもありました。太郎は東京で起業した際に、友人宅で素六と初めて出会い、その人物に強く惹かれました。
当時、父親との関係が悪化していた太郎にとって、素六は心の支えとなりました。彼は東京へ帰る度に、素六に会いに行くようになりました。素六は太郎に対して、「誠実に生きること、人を騙さないこと、裏切らないこと、ひたすら誠意を尽くすこと」という教えを伝えました。太郎はこの言葉を一生忘れず、他の人々にもこの教えを語り続けました。
太郎の経営理念は「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」と「誠実一路」でした。これは、「一度決めたら、命をかけてもそれを遂げる決意を持ち、誠実に物事を進める」という意味を持っています。太郎の人生を振り返ると、この言葉が彼の行動に深く刻まれていたことがわかります。特に、アラビア石油設立における彼の行動は、「不惜身命」の精神に従っていたと言えるでしょう。太郎は、自らの信念と誠実さをもって困難な状況に立ち向かい、道を切り開いていったのです。
オブラートの開発
農学校を卒業した後、太郎は秋田県でお菓子屋を経営している義兄、久助の元で生活を始めました。久助は新しい技術や知識が出てくると、迷うことなく積極的に取り入れ、自身の商売に活かしていました。この革新的な精神に、太郎は大いに感銘を受け、好意を抱いていました。久助のお店では、もち菓子の販売の他に、あめ菓子も取り扱っていましたが、久助はあめ菓子が裸のままだとゴミが付着して汚れるという問題点を常に改善しようと考えていました。彼は何かであめ菓子を包むことで、ゴミが付くのを防げないかと思案していました。
その一方で、もち菓子を作る際に使う釜で米を炊くと、ねばねばした液体が飛び散り、釜の縁に薄い膜ができていました。久助はこの膜を何かに利用できないかと考え、これが現代で言う「オブラート」の原型を作ることに成功しました。当時、日本にはドイツから輸入されたオブラートがありましたが、それは厚さ2mmもあり、折り曲げると簡単に割れてしまう硬いものでした。そのオブラートを水に浮かべて柔らかくし、その上に薬を乗せて包むという使い方をしていましたが、非常に不便でした。
久助は、そのまま使用できる薄くて柔軟性のあるオブラートを作ることを思いつき、太郎に相談しました。太郎は久助と共に研究を重ね、最終的にはこんにゃくの粉を混ぜて焼くことで、どんなに曲げても破れない高品質のオブラートを完成させることに成功しました。太郎はこのオブラートを東京に持って行き、商売に成功することを夢見ました。そして、特許を取得し会社を設立することを考えました。このオブラートの発明は、太郎が企業家として歩み出す第一歩となったのです。
東京でのビジネス
明治45年、太郎は東京へ戻り、彼のビジネスを展開するために小規模なオフィススペースを借りました。この年は明治時代から大正時代へと変わる重要な時期でした。大正3年に第一次世界大戦が勃発すると、戦争によって貿易業界が活性化すると予見した太郎は、大手商社である三井物産に注目しました。彼は、優れた情報ネットワークを持つ大手企業を利用することが、ビジネスを素早く拡大する最も効率的な方法だと考えました。
しかし、名門三井物産が簡単に新進気鋭の若者である太郎を受け入れるわけがなく、彼は何度も門前払いを受けたと言われています。それでも太郎はめげずに三井物産を訪れ、情報収集に努め続けました。ある日、三井物産を訪問した際、ドイツが日本に対して硫酸アンモニウム(流案)の輸出を停止したという情報を入手しました。硫酸アンモニウムは農家にとって必要不可欠な肥料であり、当時の主要な輸出国はドイツのみでした。この状況は三井物産にとっても大きな痛手でした。
この突発事態を目の当たりにした太郎は、独自に硫酸アンモニウムの輸入を成功させる決意を固めました。彼はまず三井物産から得た情報を元に、ドイツ以外の国で硫酸アンモニウムを生産している国がないか、様々なルートを通じて問い合わせ、徹底的に調査を行いました。そして、アメリカが硫酸アンモニウムの生産国であることを突き止めました。
太郎は速やかに三井物産を訪れ、自身の信用をもとに取引の際に必要な資金を調達し、硫酸アンモニウムの輸入を敢行しました。この貿易取引によって、彼は投資額の3倍以上の利益を上げることができ、これが太郎のビジネスキャリアにおいて重要な一歩となりました。
第一次大戦期
大正6年、太郎は戦争によって高まる武器と兵器の需要に目を付け、その輸入ビジネスに手を出すことを決意しました。当時の経済状況は戦争景気に沸いており、日本は実際に戦争に参加していましたが、地理的な理由から戦争の被害をほとんど受けていませんでした。その結果、戦火が激しい地域からの商品注文が日本に集中し、ビジネスチャンスが拡大していました。
武器輸入によって莫大な利益を得た太郎は、その資金を活用して鉄や穀物など、他の商品への投資も行い、着実に稼ぎを増やしていきました。ある日、彼が三井物産を訪れた際、ロシアから来た外国人が先に商談を行っていました。その外国人は鮭の缶詰を三井物産に売り込もうとしていましたが、担当者は困惑していました。なぜなら、当時のロシアは革命騒ぎが起こっており、安定した取引が難しい状況だったからです。
太郎はこの状況を聞き、その場でロシア人から鮭の缶詰を買うことを決断し、持ち合わせていた現金で支払いを行いました。彼自身もロシアで政変が起こっていることを承知していましたが、捨て値に近い値段で取引が成立したため、リスクを取る価値があると判断したのです。その後、様々なトラブルがありましたが、最終的にはロシアの制約を乗り越え、安く買った鮭の缶詰を日本で高値で売りさばくことに成功し、さらなる大利益を得ることができました。
太郎は、ビジネスチャンスを見つけるとすぐに行動に移し、困難な状況でも最後まで諦めず、大きなリスクを背負ってでもチャレンジする姿勢が成功へと繋がりました。彼のこの行動力と粘り強さが、彼のビジネスキャリアを大きく飛躍させた要因となりました。
米騒動
第一次世界大戦が激しく進行していた時期、富山県を中心に米騒動が勃発し、その影響はやがて全国に広がりました。太郎はこの社会的混乱を解決するためには、米の供給量を増やすしかないと考えました。そこで彼は中国から米を輸入することを思いつきます。彼が目をつけたのは江蘇米という品種で、これは日本の米と大きな違いはないため、国内での受け入れもスムーズであろうと考えたのです。
しかし、この江蘇米は中国の地方政権によって輸出が禁止されていました。この困難な状況を乗り越えるため、太郎は自ら仲介役となり、江蘇米の調達を試みました。彼は国のために働いているという信念のもと、利益を求めることなく、もし損失が出た場合には補填するという条件で取引を進めようとしました。国の事情を背負っての大きな賭けでしたが、彼はこれを乗り越えようとしました。
しかしながら、この試みは最終的には失敗に終わりました。当時の上海の総領事が国際的な問題を理由に、太郎の提案を断りました。太郎はこの経験を通じて中国の米事情に詳しくなり、これが彼の次の事業へのアイデアに繋がりました。彼は失敗から学び、新たなビジネスチャンスを模索し続ける精神力を持っていたのです。
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満州太郎
当時、満州においては、満州鉄道(通称「満鉄」)が社員の福利厚生の一環として消費組合を設立しました。現代の言葉で表現するならば、これは共同購買の組織のようなものでした。満鉄に所属する人々は、この組合を通じて日用品や食料品を購入しており、その中には米も含まれていました。太郎は、日本への持ち込みが困難であった酵素加工品を満鉄の従業員の食料として活用するアイデアを思いつきました。彼は、輸出が禁止されていたこれらの商品を満鉄に提供し、その代わりに満鉄が持っていた朝鮮産の米を日本に送る取引を行いました。当然、これは規則違反であったものの、満州は当時日本の影響下にあったため可能となりました。
しかし、1923年3月、関東大震災が発生し、日本の株価は暴落しました。これにより市場は大混乱に陥り、太郎もまた大きな経済的打撃を受けました。さらに、満鉄は契約していた江蘇米を一方的にキャンセルしました。米価が下落したため、高価でリスクを伴う江蘇米を購入する必要がなくなったのです。太郎はこの際、満鉄からの借金を抱え込みましたが、決して愚痴を言うことはありませんでした。彼の会社は再び小さな店に戻り、彼自身はほとんど無一文となりました。
しかしこの時の太郎の態度が後に彼の運命を好転させることとなりました。満鉄が社宅建設の事業を計画していたことが太郎の耳に入り、彼はこのプロジェクトを請け負うことになりました。海外で住宅を建設し、そのオーナーとなることは非常に冒険的なことでしたが、太郎は満鉄の将来性を信じてこの大プロジェクトに乗り出しました。そして、彼は満鉄の信用を背景に資金を借り入れることができました。
また、この時期には満州事変が発生し、満州は事実上日本の支配下に入りました。これにより太郎が建設した社宅の敷地も彼のものとなり、さらに満鉄の従業員の数が急増し、社宅の需要も増加しました。結果として、太郎は1922年から始めた社宅建設事業で、終戦時までに約5万数千軒の社宅を建設し、莫大な利益を上げました。この成功により「満州太郎」という名が彼に付けられるようになったのも、この時期のことです。
再び無一文へ
昭和の初期、日本が戦争へと傾斜していく中、太郎は頻繁に銀座に位置する交詢社ビルに出入りしていました。交詢社は明治、大正、昭和の各時代を通じて財界人たちの社交クラブとして名を馳せており、知識の交換や人間関係の構築の場として利用されていました。太郎がこの社会で一定の地位を築き上げることができたのは、彼が築いた広範な人的ネットワークのおかげでした。
太郎の身長は150cmとそれほど高くなく、彼は常に頭を上げて歩く姿から「上向き太郎」というニックネームが付けられました。彼にはまた「満州太郎」や「アラビア太郎」といった異名もついており、これらは時として尊敬の念を込めて、また時には嫉妬や揶揄を込めて使われました。これは彼が成し遂げたことの影響力が非常に大きかったためです。
太郎はエリートコースを歩む人物ではなく、彼の努力と成功は多くの人々にとって刺激となり、彼への尊敬の念を抱かせました。しかし、一方で彼の成功を妬む声も存在しました。いずれにせよ彼が成し遂げたことの大きさは現実のものであり、他者の言葉で色を付けるものではありません。
第二次世界大戦が終結するとともに満州帝国も消滅し、それに伴って「満州太郎」としての太郎の財産もほとんど失われてしまいました。これは彼にとって大きな打撃でしたが、彼は悲観することなく早速再起を目指す計画を練り始めました。当時彼は60歳に近い年齢でしたが、そのエネルギーと意志の強さは衰えることがありませんでした。
さて、ここから物語は佳境に入っていきますが、、、この物語の前半はここまで、後編でまた会いましょう!
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