原始仏教:仏陀

哲学

突然ですが、皆さんは日々の生活の中で、将来に対して不安を感じたり、小さな悩みに心を痛めたりしていませんか?私たちはしばしば、何かが常に足りないような感覚に苛まれるものです。この漠然とした不安感に対して、仏教の教えを説くブッダは、次のように教えます。

「人生には常に何かが欠けているものだ。それは、何が良くて何が悪いのかという勝手な妄想から生まれる。本当は、この世界に善も悪も決まっていないんだよ。」

多くの人が、良い行いと悪い行いが明確に存在すると考えがちですが、それは本当にそうでしょうか?例えば、動物は自然の本能に従って行動しますが、それが必ずしも人間の道徳観念に則っているわけではありません。

同様に、私たちが仕事で成功し、お金を稼ぐことが「人生の勝者」とされる現代社会でも、その価値観は誰が決めたのでしょうか?ブッダはこう指摘します。

「社会的な価値観や成功の基準も、実は全部妄想に過ぎない。人生には勝ちも負けもなく、それに囚われることは幻想に過ぎないんだ。」

この考え方を受け入れることは、一見すると簡単ではありません。しかし、もし私たちが少し立ち止まって、自分たちがどのようにしてこれらの不安や悩みに苛まれるのかを考える時間を持てば、もしかするともっと心穏やかに、そして自由に生きる道が見えてくるかもしれません。

ブッダの教えが示すように、「何が足りないか」ではなく、「今あるもの」に焦点を当てることで、私たちの生活はもっと豊かなものに変わるでしょう。

今回は仏陀の教えを書いていきます。

仏陀について

まず、「原始仏教」という言葉について説明します。原始仏教とは、ブッダが入滅してから約100年間にわたる、いわゆる初期仏教のことです。この時代の教えは、後の大乗仏教や部派仏教に分裂する前のもので、ブッダの教えが比較的原形を留めていた時期です。

ブッダは、一国の王子として生まれ、29歳まで何不自由なく生活していました。しかし、ある日城の外に出てみると、病気で苦しむ人や年を取って体が動かなくなった人、葬式を目の当たりにしました。これまで城の中でこうした光景を見たことがなかったブッダは、人生の一時的な楽しさだけでなく、最終的には老いや病、死に至るという現実を認識しました。

「なんてことだ、人間ってこんなにはかないのか。結局、歳を取って病気になり、死ぬのか。じゃあ、一体何のために生まれてきたのだろう?」とブッダは考え、29歳で出家し、本当の生きる目的を探し始めました。壮絶な修行の末、35歳で悟りを開き、その後ブッダの教えが仏教として広まりました。ブッダは80歳で亡くなり、彼の教えが失われないように、当時の弟子たちがこれをまとめました。

仏教の変化

ブッダの教えは、ほとんどが口頭で伝えられたものでしたが、それが記録されるまでの間、さまざまな解釈が生まれました。さらに、ブッダの言葉は非常に回りくどいもので、聞き手が自分自身で気づきを得るよう促すスタイルでした。

例えば、煩悩について尋ねられた際、ブッダは植物の種を例に出し、「煩悩もそれと同じだ」と答え、聞き手に自ら考えさせ、「煩悩は小さいうちに対処しなければ、大きく育ってしまう」という事を導き出させました。

このようにしてブッダの教えは最初は彼の弟子たちの記憶によって伝えられましたが、ブッダが亡くなって約100年後には、その解釈を巡って大きな分裂が起こりました。厳格に解釈する小乗仏教と、

より自由な解釈をする大乗仏教に分かれたのです。日本で広く受け入れられているのは後者の大乗仏教です。

このような変遷を経て、現在一般に知られている仏教は、原始のブッダの教えから大きく変化しており、元の教えとは異なるものになっているとされます。この歴史的変遷が、仏教がどのようにして今日の形に至ったのでしょう。

ある仏教研究者によれば、大乗仏教の考え方は、キリスト教やイスラム教のように、何らかの神や大きな力に救いを求める面があると言われています。しかし、ブッダが最初に説いた原始仏教は、そうした超自然的な力に頼るのではなく、自分自身の心のあり方を深く見つめ、それを改善することに重点を置いた非常に合理的で実用的な教えでした。

この原始仏教は、内省と自己改善を通じて、個人が自らの苦しみを克服し、究極的には悟りを開くことを目指します。それは自助努力に基づく精神的成長を促す教えであり、神や他の存在に依存するのではなく、個々の行動と意識の変化に焦点を当てています。このアプローチは、人間の内面に潜む可能性と力を引き出すことを目指し、自己実現の道を示すものです。

原始仏教の教え

原始仏教において、ブッダは苦しみや悩みを心の動きとして捉え、それらが自分の心を正しく理解することで解決可能であると教えています。つまり、内面の洞察と認識の変化が、外部の状況よりも重要だと言われています。

例として、大金持ちになりたいと切望する人物がいます。彼は貧困に苦しみ、「もっと成功すべきだ」と日々悩んでいます。その彼に対し、友人は「高望みしすぎだ」と助言します。一時的には、この考えに納得し、もっと気楽に生きようと決意しますが、翌日にはまた同じ悩みに戻ってしまいます。これは、単に理解しただけでは内面の欲求が消えるわけではないことを示しています。欲求は一度芽生えると、たとえそれが無意味だと認識しても簡単には消えないからです。

この教えは、ただ悩みを解消する方法を示すだけでなく、人間の心理を深く理解することの重要性を教えています。欲望や期待をどのように扱い、どのようにして心の平穏を得るかを学ぶことが、苦しみからの解放への鍵とされています。自己の内面に目を向け、自己反省と精神的成長を促すことで、究極の平和を追求する道なのです。

渇愛

ブッダは人間が抱える不満や物足りなさについて、「喜びを求める心」が苦しみをもたらす原因だと述べています。彼はこのような求める心を「渇愛」と表現しました。これは、求め続けても満たされない、渇いている心の状態を指します。この割愛があるため、一時的に満たされると喜びを感じますが、すぐに満たされない不安や悩みが生じると考えました。ブッダは人生を、欲望という濁流に流される川のようなものだと捉えました。

彼はまず、このような割愛が人間には不可避的に存在することを理解する必要があると説きました。なぜなら、自分自身の心を理解しない限り、すべてが主観的になり、視野が狭まってしまうからです。ブッダは、「人は求める心によって苦悩を見る。正しい現実を見ることで、求める心を手放すことができる」と述べました。つまり、客観的に物事を見ることで冷静な心を取り戻し、苦しみから解放されることができるのです。

例えば、モテたいのに全然モテない人がいます。彼はこのまま一生1人で生きていくのか不安を感じています。しかし、この不安の正体は、すべてをマイナスの方向に妄想し、最悪の事態を想定していることにあります。ブッダは、客観的に見ればまだどうなるかわからない道があることを指摘し、自己の思考を客観的に見ることで、不安や悩みがただの妄想であることに気づけると述べました。

他人の評価を気にしない

現代人が他人からの評価に囚われています。

仏陀の教えでは「他人の心など確かめようのないものを、私は決して確かなものとして扱わない。なぜなら、それは何の役にも立たないからだ」と語りました。これは、他人の意見や評価に一喜一憂することは虚しいことですよ。といいています。

例えば、「よし子ちゃん」という架空の人物がいます。彼女は常に人目を気にし、人に嫌われたくない、馬鹿にされたくないと、とことん周りに好かれようと努めています。しかし、実際には他人が彼女についてどう思っているかは確かめようがありません。

例えば誰かが彼女を見ていたり、こそこそ話しているのを見たとき、彼女は「変だと思われているのかもしれない」「笑われているのかもしれない」と不安になります。しかし、それはたまたま他の話をしているだけかもしれません。

ブッダは、もし本当に誰かに馬鹿にされていたとしても、「だから何だ」と問うています。他人の不安や悩みは、確かめようのないことを悩み考えても意味がなく、ただ自分を苦しめるだけのものです。すべては頭の中で起こっている妄想に過ぎないと説いています。

この教えから、私たちは他人の評価に惑わされず、自己の価値を内面から見出し、心の平穏を保つことの重要性を学ぶことができます。

人の根本的悩み

仏陀は、人が不安や悩みに苦しむ根本的な理由を外的な要素—お金、物、職業、地位など—に依存することに見出しました。彼は、これらの接続的なものを「足場」として使うと、それが失われる可能性に常に恐れや不安を感じるようになると指摘しました。たとえば、お金を自分の安定の基盤と見なす人は、お金を失うことに強い恐怖を感じ、友達を足場にする人は友達がいなくなることを過度に恐れます。

仏陀の教えによると、本当の足場は自分自身の内に見つけるべきで、自分にとって正しい生き方を見つけ出すことが重要です。彼は、「いいか悪いか」「善か悪か」という二元的な判断をすることをやめるように助言しました。

仏陀は、このような判断が心を汚す要因になると述べました。例えば、子供が勉強しないことを即座に「悪」と決めつける母親は、テストで良い点を取ることが絶対的に「良い」と考えますが、世の中には勉強せずに幸せになっている人も多くいます。このような一方的な判断によって不必要な苦悩が生じることがあります。

仏陀は、自分自身の思考や判断を超えて、内面の平穏を求めることが、真の解放へとつながると教えています。それには、外部の物事に依存せず、内面の安定を見つけることが不可欠です。このような内面の探求は、自分自身と深く向き合うことから始まります。

心を平穏にする方法

ブッダの教えは、私たちがどのようにして内面の平穏を保ち、不必要な苦悩から自由になるかについても教えています。

もしテストの点数を悪いものとして受け入れることができれば、それに対する苛立ちやイライラを感じることは少なくなります。もちろん、良い点数を取れば良い学校に進学でき、収入の良い会社に入るチャンスが高まるかもしれませんが、ブッダはそのような外部の成功が本当に幸せをもたらすかどうかを問います。

ブッダは、「失敗したと思うから後悔が生まれる。相手はこうあるべきと思うから苛立ちが生まれる」と述べています。つまり、ある状態や結果に対する固定観念や期待が、実際には私たちを苦しめる原因になっているのです。彼は、いい会社に入ることや結婚することを成功と定義づけ、それに執着することが、苦痛を伴う執着の一例であると指摘しました。

さらにブッダは、「いずれ死ぬのに何のために生きるのか」という問いを投げかけます。これは、生きる目的について私たちが持つ勝手な妄想を指摘しています。私たちは常に何が正しくて何が間違っているかを判断しようとしますが、この世界には絶対的な「正しい」も「間違っている」も存在しません。例えば、動物は人間の道徳観念を持たずに行動しますが、それは彼らが善悪を判断していないからです。

この教えから、私たちは「正しい」や「間違っている」といった判断から一時的に距離を置き、より自由で平和な心を育むために必要な価値観を見直すことができるでしょう。自分を苦しめるだけの価値観は、忘れ去っても良いかもしれません。このように、ブッダの教えは、内面の平和と自由を追求するための方法を教えてくれています。

終わりに:私たちはもっと自由でいい

今回、私たちは仏陀の教えから、悩みが消える合理的な考え方について探求しました。結局、不安や悩み、あらゆる苦しみの根本的な原因は、「こうあるべき」と何かを決めつけることにあります。例えば、「年収300万以下は恥ずかしい」とか「30歳で独身は終わっている」といった社会的なラベルに囚われ、自分がそれに近づくことに不安を感じるようになります。私たちは常に他人と自己を比較し、劣っていると感じると苦しみ、優れていると感じると安心します。

しかし、ブッダは教えています。何が劣っていて何が優れているのか、それはすべて勝手な妄想に過ぎません。私たちが「判断しないこと」、つまり何が善で何が悪いかを勝手に決めつけないことが、あらゆる不安や苦しみから解放される鍵だというのです。

みなさんも、自分の日常を振り返り、どれだけ多くの不安や悩みが勝手な妄想から生まれているかを考えてみてはいかがでしょうか。結局のところ、不安や悩みは、自分自身の手で自分の人生を難しくしているようなものです。ブッダの教えを心に留め、もっと自由で平和な心で日々を過ごせるようにしましょう。

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