古代インド哲学に学ぶ、日々の悩みからの解放

哲学

皆さんどうでしょう?今日もまた、満員電車で身を委ね、日々のルーティンに追われているかもしれませんが、そんな中で、ふと「毎日が楽しくない」「悩みが尽きない」「なぜこんなに苦しまなければならないのだろう」と思うことはありませんか?私たちは日々の仕事や生活に対して、さまざまな悩みを抱えがちです。

しかし、ここで一度立ち止まってみましょう。古代インドの哲学者、ヤジュニャヴァルキヤはこんな言葉を残しています。「お前たち、いったい何に悩んでいるんだ?死にもせず、ただ自分という存在に感情移入しているだけなんだ。実際にお前たちに辛いことや苦しいことが起こっているわけではない。」

これは、私たちが「私」という存在を根本から誤解していることを示唆しています。本来「私」ではないものを「私」と錯覚し、その「私」ではないものの体験に感情移入しているのです。そして、そういった感情移入が悩みや不安を生み出しているのですね。

ただし、ここで述べられていることがすぐに理解できないかもしれません。しかし、順を追って説明することで、きっと皆さんも理解できるようになるでしょう。今回のブログでは、古代インド哲学の深い教えを、わかりやすく解説していきますので、最後までお付き合いください。

“ヤジュニャヴァルキヤ:古代インド哲学の源流とその影響”

今日は、東洋哲学、特に古代インド哲学の重要人物であるヤジュニャヴァルキヤについて深く掘り下げてみましょう。約3500年前、古代インドにはベーダと呼ばれる神話が信じられており、神々が登場するこれらの神話は人々にとっての真実でした。当時、自然災害、例えば洪水や地震、嵐などは神の怒りと考えられており、これを沈める役割を持ったのが神官、つまり「治」でした。

この背景の中で、「治」の人々はベーダを利用し、自分たちが神の口から生まれた存在であると記述を加えました。この結果、彼らはバラモンと呼ばれ、最高位の存在として敬われ、下位階級の人々を支配するようになりました。このような余暇が生まれた結果、彼らは深い哲学的な思考に没頭し始め、これが東洋哲学、特にインド哲学の始まりとなりました。

西洋哲学が世界の根源や絶対的な真理を追求したのに対し、東洋哲学は人間の内面、例えば「人間とは何か」「私とは何か」という問いに焦点を当てました。これにより、西洋では科学が、東洋では心理学や内省のような分野が発展しました。

そんな古代インドで、当時の王族たちは暇を持て余し、「私とは何か」についての大討論大会を開催しました。この討論で、ヤジュニャヴァルキヤは登場し、他の参加者を圧倒的な知識と論理で打ち負かし、勝利を収めました。彼のこの圧倒的な勝利により、ヤジュニャヴァルキヤは聖仙と呼ばれ、古代インドの最大の哲人としての地位を確立しました。

彼の教えは、後に仏陀にも大きな影響を与えることになり、東洋哲学の原点として今日に至るまでその思想が受け継がれています。

“「梵我一如」という教えの深遠なる意味”

ヤジュニャヴァルキヤの教えの中で特に有名なのが、「梵我一如(ブラフマン=アートマン)」という概念です。これは、梵(ブラフマン)、つまり世界を構成する根本原理と、我(アートマン)、すなわち個人を形作る根本原理が、実は同一のものであるという教えです。

ヤジュニャヴァルキヤは、私たちの悩みや苦しみは、この「梵我一如」の真実を知らないことから生じると説いています。彼は、この真実を理解することにより、すべての苦しみや悩みが、単なる思い込み、勘違いに過ぎないことに気づくことができると言っています。

初めて聞くと、この教えはスピリチュアル的で難解に感じるかもしれません。しかし、東洋哲学は実は非常に論理的で、その核心を理解すれば難しくないのです。

では、「我」、つまり個人とは何か、それを成り立たせる原理とは何かを考えてみましょう。自分とは何か?多くの人は「今ここにいる自分」が自分だと考えるでしょう。しかし、自分を構成する要素は何でしょうか?例えば、あなたの髪の毛は、あなた自身ですか?多くの人は、髪の毛を「自分の一部」と考えるでしょう。つまり、自分の髪の毛を自分自身と同一視することはないのです。

このように、「梵我一如」とは、個人的な存在と宇宙的な原理が本質的には一つであるという考え方です。私たちが日々感じる個々の経験や感情は、実はこの宇宙的な原理の一部に過ぎないというのが、ヤジュニャヴァルキヤの教えの核心です。この理解に至れば、私たちは無意味な悩みや苦しみから解放され、より深い平和と調和を見出すことができるでしょう。


“自己の本質を見つめる:肩書き、性格、脳からの洞察”

私たちは日常で、自己紹介の際に肩書きを使います。「Googleで働いている35歳の独身者です」といった具合に。しかし、このような肩書きは真の自己を表しているわけではありません。たとえ職を失い、肩書きが変わっても、童貞を捨てても、自分が自分であることに変わりはありません。

次に、性格について考えてみましょう。周りから「陰キャ」と呼ばれているかもしれませんが、もし性格が変わったとしても、自分が自分でなくなるわけではありません。では、「私」という存在は一体何でしょうか?一見、「私」とは脳のことのように思えます。例えば、もし脳をクラスメートのミユキちゃんと入れ替えたら、私はミユキちゃんになるのではないかと思えます。しかし、これも実は正しくありません。

現代科学では、私たちの意識が脳によって生み出されているのかどうかは、はっきりとは分かっていません。脳の中を見ると、脳細胞が化学物質を発して機械的な運動をしているだけです。もし機械的な運動が意識を持つなら、同じように情報を処理するパソコンも意識を持っていると言えるかもしれません。

オーストラリアの哲学者デイビッド・チャーマーズは、1994年に「脳を物理的に調べても意識現象の説明にはつながらない」と述べました。意識が脳から生み出されているのか、私たちの意識がこの世界外の何か、例えばVRゴーグルを装着している体験なのかもしれないという考えがあります。この現実は、長い夢の中の世界なのかもしれません。

つまり、現代科学では「私」とは脳であると断定することはできません。私たちが死んだ時、そこにあるのは無ではなく、VRを外した別の誰かかもしれません。あるいは、意識だけの存在として空中に漂うのか、単に夢から覚めるだけなのかもしれません。このように、「私」という存在の本質を考えると、多くの可能性が浮かび上がります。


“「私」とは何か:ヤジュニャヴァルキヤの教えとその現代的な解釈”

「私」とは一体何でしょうか?この根源的な問いに対して、ヤジュニャヴァルキヤは次のように答えています。「私が存在すると言えるのは、何かを見たり感じたりする意識現象がある時だけだ。」これを理解するためには、睡眠中の状態を考えると良いでしょう。私たちはしばしば、「夢を見た」と言います。夢は、現実ではない幻想ですが、私たちは夢の中で何かを体験したかのように感じ、話します。つまり、「私」とは、意識現象を体験している状態、たとえそれが夢であっても、です。

これは、体がなくても、脳がなくても、見る、聞く、感じるといった意識があれば「私」は存在するということを意味します。この考え方は、18世紀の哲学者デイヴィッド・ヒュームの「人間は知覚の束」という表現と根本的には同じです。ヒュームはヤジュニャヴァルキヤから2000年後の人物ですが、彼らの考え方は同じ根底にあります。

西洋哲学が「遅れている」と思うかもしれませんが、実際にはそうではありません。西洋哲学は、物事を外側から考え始め、徐々に人間の内面へと進んできました。東洋哲学とは異なる方向からスタートしたため、徐々に内側へと進展しているのです。言い換えれば、西洋哲学は外側から内側へのアプローチを取り、時間をかけて内面を探究してきたということになります。


“ヤジュニャヴァルキヤの哲学:自己認識と存在の本質”

ヤジュニャヴァルキヤによると、「私」という存在の本質を理解するためには、「梵我一如」という概念を深く掘り下げる必要があります。この教えでは、世界を成り立たせる原理「梵(ブラフマン)」と、個人を成り立たせる原理「我(アートマン)」が本質的に同一であるとされます。つまり、「私」とは、意識現象を認識する存在、すなわちアートマンであり、この認識自体が個人の本質であるとされます。

ヤジュニャヴァルキヤはさらに深めて、私たちは「私」という存在を直接的に認識することはできないと説きます。これは、意識現象を認識する存在が自己を認識することは、自分の目で自分の目を見るようなもので、実際には不可能だということです。私たちは、何かの対象になり得る存在ではなく、単に認識しているだけの存在です。これは、たとえあなたが身体的に束縛されていたとしても、本質的には認識するものであり、実際には束縛されていないということを意味します。

例えば、上司に叱られて苦しんでいるときも、本当の「あなた」とは、その状況を認識しているだけの存在です。これは、映画を観る観客が映画の主人公に感情移入するが、実際にはその観客自身が主人公ではないのと同じです。私たちは現実の中で、本当の「私」ではない「私」に感情移入し、その結果、苦しみや悩みを抱えることになります。ヤジュニャヴァルキヤは、私たちが自分とは無関係のものを自分だと思い込んでいることが苦しみの根源だと説いています。彼の教えは、私たちが自分とは何かを深く理解することで、苦しみから解放される道を示唆しています。


“ヤジュニャヴァルキヤの哲学:「私」の捉えどころのない本質”

ヤジュニャヴァルキヤは「私」という存在について、その捉えどころのない本質を説明しています。「私」というのは、具体的に捉えることができない、束縛されたり傷つけられたりしないものだと彼は言います。もちろん、肉体が傷つけられれば痛みを感じ、悲しい出来事が起これば涙を流します。しかし、これらの経験は、「私の人生」という映画の中の出来事に過ぎません。本当の「私」とは、それらをただ眺めている観客のようなものです。

ヤジュニャヴァルキヤによれば、私たちが経験する現実は、味や空気、匂い、痛みを感じることのできる4DX映画のようなものです。しかし、それは本質的に「私」とは無関係な、他人の映画の中の出来事に過ぎません。私たちの経験する感情や感覚は、本当の「私」にとっては外部の事象であり、私たちはその事象をただ観察する存在です。この理解は、私たちが日々経験する苦しみや喜びが、本質的には私たち自身から離れたものであることを示唆しています。つまり、「私」という存在は、外部の事象によって束縛されたり傷つけられたりすることはないというのが、ヤジュニャヴァルキヤの教えです。

“ヤジュニャヴァルキヤの哲学に学ぶ:悩みを超えた自己認識”

ヤジュニャヴァルキヤの教えから、悩みや苦しみが実は私たちの勘違いによるものであるという視点を学びました。私たちが普段考えていることは、実は意図的に考えているわけではなく、自然と心に浮かんでくるものです。例えば、「10秒間何も考えない」と試みると、自然と頭の中に思考が浮かんできます。これらは意識的な選択というより、自然発生的なものです。

私たちの行動や思考は、私たちが完全に支配しているわけではありません。それらは自動的に浮かんできて、その流れに沿って体が動くことが多いのです。つまり、「私」という存在は、自動的に動く体を観察しているだけの存在に過ぎません。私たちは、自分自身を「映画の観客」として見ることで、悩みや苦しみという体験を一歩離れた視点から見ることができます。

辛い経験があっても、それは映画の中の辛い体験を見ているだけです。悩みがあっても、それは悩んでいる自分を上から観察しているだけなのです。私たちが「私は辛い」「私は不幸だ」と感じるのは、感情移入の結果です。しかし、自分自身を客観的に捉えることで、人生はより楽なものになる可能性があります。このようにヤジュニャヴァルキヤの教えは、私たちに内面の平和と客観性をもたらす手がかりを教えてくれるのです。

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