知っておくべき日本の偉人!インドの砂漠を緑に変えた、グリーンファーザー杉山龍丸氏

歴史

「日本人では無理」という常識を打ち破り、インドの砂漠を緑地に変えた男がいます。彼の名前は杉山龍丸氏、通称「グリーンファーザー」。インドでは、マハトマ・ガンジーに匹敵する偉業を成し遂げたとして、世界が驚愕しています。

インドには、「偉大な父」と称される二人の人物がいます。一人は、インド独立運動の指導者であり、独立の父として知られるマハトマ・ガンジー。そしてもう一人が、日本人でありながらインドの砂漠地帯の緑化に尽力し、多くのインド人を飢餓から救った「緑の父」、杉山竜丸氏です。

彼は、インドを悲惨な状況から救うために全てを捧げ、自らの資材も投げ打ってまで緑地化に努めました。しかし、なぜ彼はインドのためにこれほどまでに力を尽くせたのでしょうか?今回の記事では、この「緑の父」として称えられる杉山龍丸氏の偉業と、彼がインドで成し遂げたことを詳しくご紹介します。

「緑の父」杉山竜丸氏: 祖父の遺訓と戦争体験を通じてインド緑化への道を歩んだ一代記

1919年、福岡県で生まれた杉山龍丸氏は、3人兄弟の長男として、祖父茂丸氏と父安父氏の影響を受けて育ちました。祖父はアジア独立運動に貢献した「生界のフィクサー」として知られ、父は幻想文学の第一人者として活躍し、農業指導者を育成するために福岡に広大な土地を購入し、アジア各国からの留学生を受け入れていました。竜丸氏は、この環境で農業の重要性を学びました。

16歳で祖父が亡くなり、翌年には父も47歳の若さで亡くなります。この悲しみの中で、祖父の「アジアの人々を救いなさい」という言葉が竜丸氏の心に深く刻まれました。19歳で家族を養うために陸軍志願学校に入学し、軍人としての道を歩み始めます。戦時中の経験から命の尊さを痛感し、人間愛に目覚めました。

戦後、杉山農園に戻った竜丸氏は、偶然再会した知人からインド人青年を紹介されます。この青年はガンジーの弟子であり、龍丸氏が彼を預かったことがきっかけで、他のガンジーの弟子たちも農園を訪れるようになりました。龍丸氏は彼らを指導し、ガンジーの平和の教えを守りながら、彼らが技術を身につけて帰国する姿に感銘を受けました。これが、インドへの深い思いを抱くきっかけとなり、後にインドの緑化に貢献する道を歩むようになったのです。

「インド砂漠緑化の挑戦」 – 杉山龍丸氏の緑の革命とその挫折

昭和30年代、杉山龍丸氏が行っていた教育活動がインドのネル首相にまで認められ、特使が派遣され、感謝の言葉とともに引き続きの支援を受けることになりました。この出来事がきっかけで、龍丸氏はアジアの貧困撲滅を目的とした「国際文化福祉協会」を設立し、インドからの留学生をより積極的に受け入れ始めます。

龍丸氏が42歳のとき、パンジャブ州の相徳ピラト氏に招かれて初めてインドを訪れました。飛行機から見た広大な砂漠の光景は竜丸氏に強い衝撃を与えました。当時のインドは森林伐採による砂漠化が進行中で、人々は慢性的な飢餓に苦しんでいました。ピラト氏は、インドを豊かにする方法を龍丸氏に問いました。龍丸氏は植林の必要性を提案し、特に乾燥に強いユーカリの木をデリーからアムリサルに走る国際道路沿いに植えることを提案しました。この提案は、山脈からの雨水をユーカリが吸収し、周辺の土地で作物が栽培できるようにするというものでした。

しかし、その直後、インドは大干ばつに見舞われ、3年間続く干ばつにより500万人もの餓死者が出るという悲惨な状況となりました。インド政府はこの状況に対処できず、竜丸氏の計画は中断されました。龍丸氏はこの事態を国連本部に訴えかけましたが、門前払いを受けてしまいます。国連本部は国際機関であり、個人、特に日本人の訴えは受け入れられない状況でした。

「砂漠に緑を呼び込んだ男」 – 杉山龍丸氏の緑化プロジェクトとインド農業革命

杉山龍丸氏は、アジアの人々のために祖父が購入した杉山農園の4万坪の土地を売却し、インドの緑化プロジェクトのための資金に充てる決断をしました。祖父の「アジアの人々を救いなさい」という言葉に導かれ、竜丸氏には迷いはありませんでした。ちょうどその頃、パンジャブ州からユーカリの苗木が成功裏に育てられたとの報せが届き、彼の決意は更に強まりました。

龍丸氏は、ユーカリの木を植えるために、国際道路沿いの村々を訪ね歩き、ユーカリの効果を説明し、地域を豊かにする共同作業への協力を呼びかけました。しかし、地元住民の反応は当初冷たく、非協力的でした。彼らは日々の生活に追われ、未来への希望を見出す余裕がありませんでした。それでも竜丸氏は諦めず、自ら先頭に立って植林活動を続け、徐々に住民の心を動かし、協力者が増えていきました。

昭和39年から47年の8年間で、470kmの区間に3万本のユーカリを植えることに成功しました。やがて、成長したユーカリのおかげで周辺地域は水分を含んだ土壌に変わり、稲作や芋の栽培が可能になりました。今やパンジャブ州はインドで最大の穀物生産が盛んな地域となっています。

「シワリックレンジの緑化奇跡」 – 杉山龍丸氏によるインド高地の環境変革

杉山龍丸氏のインドでの功績は、単なる砂漠地帯の緑化に留まらず、シワリックレンジの高地環境改善にも及びます。この地域は、3000kmに及ぶ山脈で、日本列島よりも長い範囲に広がっています。当時、この地帯は深刻な土砂崩れに悩まされており、雨が降るたびに麓の村々は壊滅的な被害を受けていました。さらに、崩れた土砂は砂漠化の進行を加速させていました。

多くの研究者が解決策を見出せなかったこの問題に、龍丸氏は「不可能と思わなければ全て可能だ」という信念のもと、地盤調査を粘り強く続けました。調査の結果、コケや微生物が生きている場所では土砂崩れが起きていないことが分かりました。そこで竜丸氏は、土砂崩れが起きやすい地域の表面を安定させるため、砂漠に自生するサダバールという植物を最初に植えることを提案しました。この植物が根を張った後、食用の花や実を提供するモリンガやユーカリの木を植える計画を立てました。

当初、多くの人々は、シワリックレンジの崖に植物を植えることが不可能だと考えていました。莫大な資金と時間が必要とされるこのプロジェクトは、日本政府からの支援もなく、残っていた杉山農園の土地を売却して資金を捻出することから始めました。龍丸氏は周囲の否定的な意見を受け入れず、自らの信念に従って活動を続けました。サバールは非常に生命力が強く、根を張って成長する能力を持つ植物です。実験的に6000本のサバールの苗木を植えたところ、ほぼ100%が活着し、土砂崩れがなくなりました。さらに、小鳥によって新しい植物種が確立するなどの嬉しい変化も見られました。

このシワリックレンジの緑化第一歩の成功により、龍丸氏の活動は世界的な認知を獲得し始めました。

杉山龍丸氏の不屈の精神とインド緑化の軌跡

昭和59年、オーストラリアで開催された国際砂漠会議に出席した杉山竜丸氏は、インドでの緑化成果を発表し、世界各国の学者たちから賞賛を受けました。これにより、彼の意欲は一層高まり、ますます力を入れて植林活動に取り組みました。しかし、翌年68歳を迎えると、彼の体はその重い責務に耐えきれず、祖父や父と同じ病に倒れ、2年2ヶ月の闘病の末、この世を去りました。

心半ばで倒れた龍丸氏でしたが、彼の強い意志と情熱は、共に緑化事業に励んだインドの人々に受け継がれました。彼が倒れた後も植林活動は続けられ、シワリックレンジには緑の帯が美しく広がり、木々のおかげで土砂崩れも起こらなくなりました。インドの人々は竜丸氏がもたらした緑の奇跡に驚き、感謝の念を彼に送りました。竜丸氏がインドの植林活動に費やした資金は合計140億円にものぼり、祖父の思いを受け継ぎ、アジアの人々のために尽くした人生でした。

地球上のすべての砂漠を緑に変えるという最終目標を持ちながら、その夢を果たすことなく去った竜丸氏ですが、インドの人々の心に緑を植えることには成功しました。今日でもインドでは植林活動が続けられており、偉大なるグリーンファーザー、杉山龍丸氏の精神は彼らの中で生き続けています。

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