パレスチナ問題:ハマスの暴走とは一体何か?

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パレスチナ問題について、その背景と現在の状況を簡潔に解説します。約70年前、パレスチナには主にアラブ人が住んでいました。しかし、その後、ユダヤ人の移住が始まり、宗教や文化の違いから、両者の間で対立が生じました。この対立を解消するために国連が介入し、パレスチナの土地をユダヤ人とアラブ人に分割する決議を行いました。しかし、この決定は予想外の結果を招き、ユダヤ人が建国したイスラエルがアラブ人に割り当てられた土地のほとんどを占領しました。これにより、アラブ人の間には不満が高まり、ユダヤ人との衝突が頻発するようになりました。

歴史を遡れば、どちらが正しいと断言するのは難しい深い歴史があります。この複雑な背景が、現在も続くパレスチナ問題となっています。遠く離れた中東の問題のように思えるかもしれませんが、この問題はアメリカを含む世界情勢に大きな影響を与えており、私たち日本人にも無関係ではありません。この問題がなぜ重要なのか、その理由を考察していきましょう。

ユダヤの起源

ユダヤ人の起源とパレスチナとの関係は、約3000年前にさかのぼります。その当時、ユダヤ人は神から授かった地と信じる場所、現在のパレスチナ地域に、イスラエル王国を建国しました。この王国は、地理的に恵まれた立地のため、周辺の多くの国々からの侵攻を受けました。時間が経つにつれて、イスラエル王国は最終的に滅亡し、後にパレスチナはローマ帝国の支配下に入りました。

ローマ帝国時代に、ユダヤ人はパレスチナから離散し、世界各国に散らばりました。特にヨーロッパに多く移住しましたが、文化的、宗教的な違いから、彼らは度重なる迫害に直面しました。このような背景の中で、19世紀の終わりには、ユダヤ人の安住の地を再び確立しようとする運動、シオニズムが始まりました。初期のシオニズム運動では、パレスチナに限らず、アメリカの奥地なども検討されました。

では、なぜ最終的にユダヤ人はパレスチナを選んだのでしょうか?

これは、彼らの宗教的、歴史的なアイデンティティと深く結びついています。ユダヤ人にとってパレスチナは、単なる地理的な場所以上の意味を持ちます。それは彼らの神聖な故郷であり、彼らの祖先が初めて神の地として定住した地域です。この地に対する深い歴史的、宗教的な結びつきが、シオニズム運動の中でパレスチナを選択する強力な動機となったのです。

バルフォア宣言

ユダヤ人はパレスチナを選んだのはバルフォア宣言の成立がきっかけとなります。バルフォア宣言は第一次世界大戦中のイギリスの政治的戦略の一環でした。1917年、イギリスの外務大臣アーサー・ジェームズ・バルフォアは、著名なユダヤ人資本家であるロスチャイルド家の代表者と秘密裏に交渉を行いました。この協定では、イギリスが戦争で必要とする財政的支援をユダヤ人資本家から受ける代わりに、戦後にユダヤ人国家の設立をパレスチナで支援すると約束しました。

当時、パレスチナはオスマン帝国の領土でしたが、イギリスはオスマン帝国と戦争状態にあったため、この地域を支配することは戦略的に有利でした。また、オスマン帝国がイスラム教の国家であることから、ユダヤ人がパレスチナに入ることは、イスラム教徒との激しい対立を引き起こす可能性が高いと予想されましたが、イギリスはこのリスクを承知の上で宣言を行いました。

さらに、イギリスは当時オスマン帝国に支配されていたアラブ人に対しても、戦争への協力と引き換えにアラブ人国家の設立をパレスチナで支援すると申し出ました。そして、イギリスはフランスとロシアに対しても、戦争勝利後にオスマン帝国の領土を分割することを提案しました。

このように、イギリスは同盟国、ユダヤ人、そしてアラブ人の三方向に対してそれぞれ有利な提案を行い、異なる利害関係者を操ることで戦争を有利に進めようとしました。第一次世界大戦が終わると、パレスチナは戦勝国であるイギリスの統治領となり、ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人が大量に移住するようになりました。しかし、イスラム教とユダヤ教の間には信仰、習慣、文化において根深い違いがあるため、両者の間の対立は避けられなくなりました。

第二次対戦後のパレスチナ

第二次世界大戦後、イギリスはパレスチナの統治を放棄する決定をしました。この決断の背景には、アラブ人とユダヤ人間の問題が複雑に絡み合い、解決不可能な状況に陥ったことがあります。イギリスにとって、この地域での継続的な統治は、政治的および行政的な負担となっていました。その結果、新たに設立された国際連合がこの問題を引き継ぐことになりました。当時の国際連合は、多くのユダヤ系移民を抱えるアメリカが主導する組織でした。

この状況の中で、パレスチナの分割案が国際連合によって決定されました。この分割案では、パレスチナの総人口の約3%を占めるユダヤ人に対し、領土の56.5%を割り当てるという、ユダヤ人にとって有利な内容でした。ユダヤ人コミュニティは、バルフォア宣言の約束が不十分ながらも実現したとして、この計画を歓迎しました。一方、エジプト、イラク、シリア、レバノンなどのアラブ連盟加盟国は、長年住んでいたアラブ人の居住地が分割されることに強く反発しました。彼らにとって、自分たちの住んでいる場所が突然別の国になるというのは、受け入れがたい事態でした。

このような緊張が高まる中、1948年にユダヤ人国家であるイスラエルの建国が宣言されました。この瞬間は、約2000年前に古代パレスチナがローマ帝国の支配下に入り、ユダヤ人が離散した後、長い年月を経てようやくユダヤ人の国家が再建された瞬間でした。この出来事は、シオニズム運動の究極の成果と見なされ、ユダヤ人コミュニティにとって大きな歴史的意義を持ちました。

イスラエル独立宣言によるアラブ諸国との戦争

1948年のイスラエルの独立宣言に対し、アラブ諸国は黙っていませんでした。彼らは、イスラエルの建国を力ずくで阻止しようと、アラブ連盟の軍隊を動員し、イスラエルに対して戦争を開始しました。これが第1次中東戦争の始まりです。この戦争で勝利を収めたのは、アメリカやイギリスの支援を受けていたユダヤ人国家、イスラエルでした。イスラエル軍は圧倒的な軍事力を持ち、戦争によってパレスチナ地域の約80%を占領しました。

この独立宣言の日は、ユダヤ人にとっては悲願の独立記念日となりましたが、一方でパレスチナから追い出されたアラブ人たちにとっては「ナクバ」として悲しみの日となりました。彼らはこの日を「大惨事」と呼び、その苦難を忘れないようにしています。

その後、イスラエルとアラブ諸国との間で、1973年の第4次中東戦争まで、合計4回の戦争が行われました。特に第3次中東戦争では、イスラエルがパレスチナ全域を占領し、エルサレムを首都と宣言しました。このようにイスラエルの占領が続く中、元々パレスチナに住んでいたアラブ人は難民となり、残った人々も西岸地区やガザ地区といった狭い地域に押し込められるようになりました。イスラエルのこのような行為は、国際社会から批判を受け、国連安保理で何度も議題に上がりましたが、アメリカの拒否権行使により、決議には至りませんでした。

これらの一連の出来事を背景に、パレスチナのアラブ人たちの間で、自分たちの土地を自分たちの手で取り戻そうという気運が高まっていきました。

PLOの設立

パレスチナ解放機構(PLO)は、パレスチナのアラブ人たちのために設立された組織で、その議長にはヤーセル・アラファト氏が就任しました。アラファト氏はPLOを戦闘的な組織に変革し、ゲリラ戦術を用いた反イスラエル活動を開始しました。このような活動が進むにつれて、パレスチナ問題は国際的な話し合いだけでは解決が難しい、根深い問題として認識されるようになりました。

しかし、和平の兆しが見えた時期もありました。1987年頃、ガザ地区ではパレスチナの一般市民による大規模な抗議活動が発生しました。この抗議活動は「インティファーダ」と呼ばれ、武器を持たない一般市民が道端の石を投げることでイスラエルに対する抗議の姿勢を示しました。イスラエル側はこの抗議を強硬に弾圧し、その結果、民間人を含む300人以上の犠牲者が出るという悲劇が発生しました。これにより、パレスチナ問題への国際的な関心が再び高まりました。

このような武力衝突が続く中、解決の糸口を見いだすためにノルウェーが仲介役となり、ついに両者の間で「オスロ合意」が成立しました。この合意は、パレスチナ問題における重要な転機となり、一時的ながらも和平への道が開かれることとなったのです。

オロス合意

オスロ合意は、1993年に締結された歴史的な協定で、イスラエルがヨルダン川西岸地区の一部とガザ地区において、パレスチナ人に5年間の暫定自治権を認める内容でした。これまで自治権を持たなかったパレスチナに対して、イスラエルが大幅な譲歩を示したことになります。また、この頃にパレスチナ解放機構(PLO)は、より穏健な平和路線へと転換し始めました。PLOは、過激な活動よりも、国際社会において話し合いによる解決を模索する組織として認識されることを目指したのです。

この合意により、PLOはパレスチナ人を代表する団体として国際的に認知されるようになりました。オスロ合意におけるパレスチナ側の代表は、PLOの議長であったヤーセル・アラファト氏が務めました。この合意は、イスラエルとパレスチナ間の和平への大きな一歩と見なされましたが、残念ながらこの合意だけでは全ての問題が解決されたわけではありませんでした。

パレスチナ解放機構(PLO)が採用した穏健な平和路線に対して、不満を持つパレスチナ人が増え始めました。彼らの中には、「なぜ平和路線を進むのか、パレスチナ人の領土は依然として奪われたままではないのか」と疑問を持つ者もいました。2004年、この緊張した状況の中でPLOの議長であったヤーセル・アラファト氏が亡くなりました。彼の死後、PLOの穏健派政治勢力であるファタハが後継となりました。

しかし、イスラエルによって大きく領土を奪われた経験を持つパレスチナ人にとって、穏健派の平和路線への反対の声は根強くありました。この反対の声は、やがてファタハを凌駕するほどに強まり、パレスチナの政治状況に新たな動きをもたらしました。

イスラム原理主義ハマス

パレスチナの政治状況の中で、イスラム原理主義を掲げる過激派組織、ハマスが力を持つようになりました。ハマスはイスラム原理主義の極端な立場をとり、反ユダヤ思想を持ち、パレスチナ全土の解放を目指しています。彼らはイスラエルとパレスチナが結んだ一部地域の暫定自治に関するオスロ合意に反対し、イスラエルに対して非常に攻撃的な態度をとります。

2000年頃からは、ハマスが指導する形で自爆テロを中心とした第二次インティファーダが始まり、これによりハマスは民衆からの支持を集めました。これに対抗する形で、イスラエルはユダヤ人とパレスチナ人の居住区の間に高さ8メートル、長さ700キロメートルに及ぶ大きな壁を建設しました。この壁は表向きはパレスチナからのテロ対策用のフェンスとされていますが、実際にはパレスチナ人を居住区に閉じ込める意図もあるとされています。

この壁の建設により、パレスチナ人の生活は一層困難になりました。出入りや物流が激しく制限され、貧困が広がり、一般市民は自由に外出できないだけでなく、武力衝突の危険に怯えながら生活することを強いられています。ハマスは、攻撃の手を緩めると穏健派と見なされるリスクがあるため、イスラエルに対する抵抗を続け、壁を作られても戦いをやめることはありません。

ハマスの複雑な役割と中東和平への道のり

ハマスは、一般に過激派組織として知られていますが、彼らは医療、貧困救済、教育、職業訓練、奉仕活動など、イスラム教の助け合いの理念に基づく社会福祉活動も行っています。このような活動は、経済的に苦しむパレスチナの民衆からの強い支持を受けており、ハマスに対する複雑な見方を生み出しています。彼らの活動は一部にはあく、一部には正義と見なされ、多くの国や異なる立場の人々が関与することで、問題をより複雑化させています。

一方で、パレスチナ自治政府は依然として自国の土地と自治権の拡大を求めていますが、イスラエルとの交渉は難航しています。2018年にアメリカがエルサレムに大使館を移転したことは、和平への道をさらに遠ざける要因となりました。イスラエルはパレスチナを占領した際、首都をエルサレムと宣言しましたが、多くの国際社会はこれを認めておらず、多くの国がその大使館をイスラエル最大の都市テルアビブに置いています。エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であり、この土地をイスラエルのものと認めることは、パレスチナや中東諸国、イスラム世界全体の反感を買い、紛争の種になります。

しかし、トランプ前大統領は大使館をエルサレムに移転すると発表しました。この決定は直後にパレスチナ人の間で大規模な抗議を引き起こしました。実は大使館移転の決定は約20年前にアメリカ議会で成立していましたが、これが混乱を招くことは明らかであり、歴代の大統領はこの法律の執行を見送っていました。

アメリカの中東政策とキリスト教福音派の影響

アメリカにおける最大の宗教勢力の一つであるキリスト教福音派には、ユダヤ支持の思想を持つ人々が多数存在します。この集団は、ドナルド・トランプ前大統領の強力な支持基盤であり、彼らの期待に応える形でエルサレムへのアメリカ大使館移転が実行されました。この決定は、キリスト教福音派の信者に対する政治的な応答として行われたものです。

その後、アメリカの大統領はジョー・バイデン氏に変わり、来年(2024年)11月には再びアメリカ大統領選挙が控えています。この選挙では、新しい大統領候補がどのような中東政策を採るかが世界的に注目されています。アメリカの中東に対する方針は、世界政治において大きな影響を持ち、国際的な安定や紛争の方向性を大きく左右する可能性があります。特に、イスラエルとパレスチナの対立や、中東地域の平和構築に関するアメリカのスタンスは、世界各国の外交政策や地域の安定に影響を与える重要な要素となっています。

中東問題とそのグローバルな影響:最近のハマスの攻撃とイランの影

先日、10月7日に起きたハマスからイスラエルへの3000発以上のロケット攻撃は、中東問題の深刻さを改めて示しています。この事件には、可能性のある黒幕としてイランが噂されています。イランはドローン技術において高い能力を持ち、ロシアのウクライナ侵攻においてもイラン製のドローンが使用されていることが報告されています。このことから、ハマスへの武器や技術の提供があった可能性が指摘されています。

さらに、イランはアメリカとも中東問題において対立しているため、この地域での新たな動きが予想されます。一部では、この攻撃がロシア・ウクライナ戦争から国際的な注目をそらすための策略である可能性も指摘されています。中東地域の紛争は原油価格の上昇やインフレ進行につながる可能性があり、これは我々の生活に直接的な影響を及ぼすことになります。

このように、中東問題は遠い地域の問題ではなく、私たちの日常生活にも影響を与える重要な問題です。日本はどのように対応すべきか、そして私たち一人ひとりがどのようにこの問題を捉えるべきか、深く考える必要があります。パレスチナ問題は、遠い中東の話ではなく、我々の未来に直結する大きな課題であることを忘れてはなりません。

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