日本の歴史の中で、語り継がれるべき偉人が数多く存在しています。しかし、その多くが十分に認識されていないのは非常に残念なことです。私はこのブログを通じて、日本の偉大な先人たちの功績を広く伝えていくことを目指しています。今回は、前回に続き「アラビア太郎」の物語をお届けします。戦後の日本で初めてサウジアラビアとクウェートから採掘の権利を獲得し、石油を掘り当てた彼の功績は、私たちの生活に大きな影響を与えています。それでは、アラビア太郎の生涯を振り返る後編をご覧ください。
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無一文からの挑戦
太郎氏はかつて満州で事業を展開し、その際には驚異的な成功を収め、膨大な利益を手に入れました。彼のビジネスは非常に順調に進んでいたのですが、第二次世界大戦が終結し日本が敗北すると、満州帝国も消滅し、太郎氏はその巨額の資産を一瞬にして失ってしまいました。
彼のルーツである秋田県は、日本国内でも石油の産出がある数少ない地域の一つです。太郎氏は幼少期から石油に関する話をよく耳にし、自然とその分野に対する関心が強まっていきました。戦後、エネルギー革命が進む中で、太郎氏は石油の重要性を強く認識し、日本がほとんど石油を産出しない国であることに焦点を当て、その解決策を模索し始めました。
彼は、第二次世界大戦で日本が敗北した多くの理由の中でも、特に石油の不足が大きな要因であったと考えていました。当時、世界の石油市場はアメリカ、イギリス、オランダ、フランスなどの大国によって牛耳られており、石油の自給能力がない日本のような国は常にこれらの国々に翻弄される立場にありました。
太郎氏は「自分たちで石油を掘らなければならない」という信念を持っており、日本国内での石油採掘は困難であることを理解しつつも、他国で石油を採掘し、それを活用することで日本のエネルギー問題を解決しようと考えました。彼は、アメリカやイギリスのように自国外で資源を確保し、それを活用することが重要であるとの考えに至りました。
また、彼は日本の織物産業を例に挙げ、日本が原材料を海外から輸入し、独自の技術で加工して輸出することで成功していることを指摘しました。これにより彼は、「資源を国内で持っていなくても、海外で調達し加工することで十分にビジネスが成立する」という確信を深め、早速その実現に向けて動き始めました。
再起
昭和30年代、日本は戦後の灰から再び立ち上がる時期を迎えていました。この重要な時期に、太郎は革新的なビジョンを持って前進し、投資家を募るとともに「日本輸出石油会社」を設立しました。彼自身が社長としてその船出を見守ることとなります。
しかし、太郎のビジネスモデル、つまり日本国内に存在しない石油を海外に売り出すというアイデアは、当時の多くの人々から疑念を持たれることとなりました。特に、輸送コストが高くつくために利益を上げるのが難しい、また、すでに確立されている海外市場のネットワークに食い込むことは困難であるといった懸念が挙げられました。
加えて、イギリスやアメリカの石油大手企業が太郎の会社の進出を阻止しようと猛烈な妨害工作を仕掛けてきました。太郎は当初、フィリピンやタイを含む東南アジア全域への販路拡大を計画していましたが、これに気付いたイギリスとアメリカの石油会社はダンピング政策を用いて太郎の会社のビジネスを妨害し始めました。これらの石油大手は原油を直接保有しており、価格競争においては太郎の会社が太刀打ちできる状況ではありませんでした。
さて、日本がアラビアの石油に初めて関心を示したのは昭和14年のことでした。当時、太平洋戦争を控え、石油の確保が急務となっていた日本は、利権獲得を目指し、4人の日本人をサウジアラビアに派遣しました。しかし、交渉は難航しました。砂漠地帯での採掘は困難を極め、採算が取れる見込みは薄かったのです。加えて、輸送路が長すぎることから、護衛の責任を負うことができないという海軍の意見もあり、結局交渉は不成功に終わりました。
それから約10年が経過し、再び日本はアラビアの石油に目を向けることとなりました。戦後の復興が進む中で、エネルギー資源の確保は再び重要な課題となり、太郎はこの機会を捉え、再度アラビアの石油利権獲得に向けて動き出すこととなるのです。
石油産業への挑戦
昭和31年、日本から原子力産業を学ぶための視察団が欧米へ派遣されました。その一員として、太郎の息子も参加していました。太郎は息子に対し、旅先で石油に関連する情報を収集してくるように頼んでいました。この視察旅行中に、息子はサウジアラビアとフランスとの利権交渉がスエズ危機の影響で破綻したという重要な情報を得ました。スエズ危機の最中、フランスとエジプトは敵対関係にあり、アラブ諸国の中でエジプトを支持していたサウジアラビアは、フランスとの取引を行うことができませんでした。
昭和32年になると、新任のサウジアラビア大使が国王との会談の機会を得ました。この際、日本政府に対し、サウジアラビアの石油利権を取得する意向があるかどうか尋ねられました。サウジアラビア側は日本が石油利権を持って欲しいと望んでいたのです。この時期、イランからも日本政府に対して石油開発の協力を求める要請があり、これにより日本の石油開発が促進されることとなりました。
昭和31年のスエズ危機を契機に、アラブ諸国の中ではイギリス、アメリカ、フランスに対する敵意が高まりました。イランやイラクもこの流れに乗じて、石油資源を西洋の国々から取り戻そうという動きが活発化しました。特にイランでは昭和26年に国有化を進め、「イラン人によるイラン石油の経営」をスローガンに掲げましたが、国際石油カルテルの報復としてイラン石油の不買運動が行われ、イランは経済的に厳しい状況に陥りました。この時、日本の井光佐蔵が石油タンカー「日商丸」を仕立ててイランの石油を買い取り、イラン国民の心を掴み、中東諸国における日本人への信頼を築き上げました。これが、将来的に中東の石油利権を日本人が担当することへの期待を生むきっかけとなりました。
このような状況の中、太郎は動き始めました。彼は時の外相に依頼し、エジプト駐在の大使を通じて現地の情報を入手しようとしました。そして昭和32年2月、68歳になろうとしていた太郎はサウジアラビアへと出発しました。彼は高齢ながらも運命に挑戦する決意を固めていたのです。
調査
中東の石油に関しては、綿密な調査を行い、多くの人々から情報を集めたものの、最終的には詳しい事情や具体的な手順はほとんど理解できなかった。これは海外の業務であり、日本人にとっては未経験の分野だったからです。石油の採掘権を得ても、実際に石油をどのようにして採掘するのか、そのためにはどれほどの資金が必要なのかなど、具体的な計画や見通しは立っていませんでした。
提案された石油採掘地は3つの地域でしたが、どの地域を選べば良いのか判断がつかない状況でした。中でもサウジアラビアとクウェートの中立地帯の沖合いの海底地域が有望であるという情報を得ました。しかし、この地域はクウェートと共有されており、掘削には約1億ドルの資金が必要だと聞かされたため、太郎は言葉を失いました。一度にこれほどの資金を集めることができるのか不安でしたが、成功すれば後の資金調達は容易になると考えました。ただし、掘削しても石油が出なかった場合のリスクも重くのしかかっていました。
太郎は最終的に1億ドルの資金を何としてでも作り上げ、プロジェクトを進める決心をしました。彼がサウジアラビアに石油採掘の申し入れを行い、一時帰国していた頃、交渉の内容が新聞に掲載されました。これを受けて太郎は記者会見を開き、計画の詳細を公表しました。公表されたプロジェクトに対しては様々な反応がありましたが、彼の行動を支持する声は少なかったです。石油業界のリーダーたちの中にも、彼の成功を信じる者はほとんどいませんでした。というのも、中東が石油資源に恵まれているとはいえ、掘削して必ず石油が出るわけではなく、石油採掘権を得ても掘削に失敗すれば何の価値もないからです。
ただ、一部の若手事務員の中には、石油採掘に熱心な者たちがいました。彼らは戦時中に日本が石油不足のために苦しんだ経験を持っており、石油採掘の重要性を強く感じていました。太郎が帰国した後、彼はわずか2ヶ月で政府からの援助を含むさまざまな支援を取り付けることに成功しました。交渉の内容が公になったことで、太郎は新しい会社を設立し、資金を集める作業を急ぐ必要がありました。設立された新しい会社は、さまざまな分野の代表者を集めて発足しました。
アラビア太郎
太郎は一生懸命に日々を過ごし、関連する省庁、団体、企業を訪れては陳情し、説得を試み、熱心に議論を交わして回りました。彼はアラビア石油プロジェクトの国家的な重要性を理解し、それを胸に財界に働きかけ、資金の借入れを試みました。彼の中には、この事業が日本国家の将来にとって不可欠であるという強い信念が根付いていました。
こうして、アラビア石油会社が設立され、新しい会社の準備が着々と進められました。しかし、この時期の日本経済は混乱し、かつての高度経済成長が崩れ始めていました。新しい会社にとっては、これが非常に不利な状況でした。投資家たちも金融緩和の時期でありながら、リスクの高い石油採掘事業に1億ドルもの大金を投じることには慎重でした。
しかし、政府からの支援が約束されていたことで、大口の投資が決まる場面もありました。一方で、投資を見送る企業も存在しました。特に石油業界は慎重な姿勢を保ち続けていました。これは当然のことでした。というのも、日本の石油関連企業はイギリスやアメリカといった外国企業と提携していたため、新しいプロジェクトへの参加は難しい状況にありました。丸石石油の社長も、このプロジェクトには否定的で、「60%は失敗する」と公言していました。
このような多くの批判や中傷にも関わらず、新しい会社の設立準備は着実に進められました。満州で活動していた太郎はすでに歴史の中の人物となっていましたが、この時点で新たな「アラビア太郎」として彼は再び注目を浴びることになりました。
不屈の商魂と歴史の重み―アラビアでの挑戦
昭和32年の7月、太郎は再度サウジアラビアへと出発しました。今回の目的は、パートナーとなる現地の関係者と細部にわたる交渉を進め、最終的に契約に署名することでした。しかし、サウジアラビアに到着してみると、交渉はスムーズに進まず、実際には交渉が始まることすらありませんでした。
現地のアラブ人はのんびりとした時間の流れを重んじる文化を持っていたため、交渉が進まないことに太郎は苛立ちを感じる一方で、理解も示していました。加えて、訪問のタイミングがイスラム暦の新年に当たる8月1日と重なり、正月休みとなってしまったことも交渉が進まない一因でした。さらに、サウジアラビアの気候は非常に厳しく、猛暑の中での活動は人体にとって過酷であり、日中はほとんど活動が停止する状況でした。このような状況下で太郎は交渉を進めなければならないという厳しい状況に置かれていました。
当時の太郎は日本を代表する一流の実業家としてサウジアラビアを訪れていましたが、実際には自身の資金は限られており、交渉が少しでも滞ったり、不利な状況になったりすると、プロジェクトそのものが立ち行かなくなる恐れがありました。そのため、彼には交渉を迅速に進め、早期に合意に達する必要がありました。その一方で、交渉相手であるサウジアラビア側も日本との提携に前向きであり、お互いに積極的な姿勢で交渉に臨んでいました。
最初にサウジアラビアから提案された交渉原案は、太郎の予想を超える厳しい条件でした。サウジアラビア側はイギリスやアメリカの資本を排除し、日本と手を組む意向を示していました。これは、過去にイギリスやアメリカとの取引で不利な思いをした経験から、日本ならば同じようなことをしないだろうと期待してのことでした。
多くの人々はホテルの中庭を行ったり来たりしながら、深く物思いにふける太郎の姿をよく目にしていました。彼の背中からは、焦りと孤独が滲み出ているかのようでした。日本国内では、太郎が進めている交渉の行く先を心配する声が高まり、資金の状況も厳しいものとなっていました。太郎自身も、不安な日々が続く中で眠れない夜を過ごしていました。
その頃、国内の政治状況も不安定で、消極的な政策が取られ始めていました。この不安定な状況を打破するためには、現地で交渉にあたっている担当者から直接、関係者に対して状況を詳しく説明することが必要であると判断されました。そのため、専門家を帰国させて現地の状況を報告し、問題を一つずつ解決していくこととなりました。
しかし、調印の予定日が来てもなお、契約は成立しませんでした。交渉が進むにつれ、他国の石油会社も介入し始め、王室会議は混乱を極めました。そして、太郎がアラビアに入ってから4ヶ月余りが経過した12月になってようやく、サウジアラビアとの契約が成立しました。次なる課題はクウェートとの交渉でしたが、この頃になると太郎がサウジアラビアから利権を獲得したというニュースは既に世界中に広がっていました。アメリカやイギリスの石油会社もクウェートに乗り込み、利権競争に加わっていました。
交渉は難航を極めましたが、日本にとって有利な点は、既にサウジアラビアの利権を取得していることでした。しかし、クウェートの利権申し込みは4月になっても決定が下されませんでした。交渉の遅れは避けられませんが、それにつれて太郎のイライラは募るばかりでした。時間が経てば経つほど、状況は日本にとって不利になることは明らかでした。太郎は、この利権交渉を何としても成功させたいと強く願っていました。過去には第一次世界大戦中の兵站、ロシアの缶詰、満州の住宅など、様々なプロジェクトで成功を収めてきましたが、一方で失敗も経験しています。彼の人生は、成功と失敗の連続であったと言えるでしょう。今回の交渉で失敗すれば、彼を支持してくれた多くの人々の前で再び顔を上げることはできないだろうと感じていました。だからこそ、太郎はこの交渉にどうしても勝ちたいと強く思うのでした。
サウジアラビアにおける利権交渉が官僚の話し合いによって進行されたのとは対照的に、クウェートでは公開の競争入札が行われ、提出された条件の中から最も有利なものが選ばれることになっていました。これは、たとえクウェートが日本に好意を持っていても、他の競争相手よりも条件が劣っていれば選ばれないという厳しい状況を意味しています。
しかし、ある日の出来事が状況を変えました。交渉チームの一員がクウェートの関係者を訪れた際、畳一畳ほどの大きさの紙を持ち帰ってきました。その紙には各社がクウェート側に提出した交渉条件の詳細が細かな数字で記されていました。この情報は、実はクウェート側のある人物から日本側へリークされたものでした。リークした人物は以前日本を訪れて以来、日本の文化に魅了されたファハド殿下で、その際に通訳を務めたのが交渉チームの一員でした。さらに、クウェートには日本を訪れた経験があり、日本人の勤勉さと有能さに感銘を受けて自社に日本人技術員を雇ったクウェートの実業家もおり、これが日本人の信用を高める要因となりました。
太郎はこれを機にアラブの人々との人間関係を築き、彼に対する好感度を高める努力を惜しまず行いました。これらの努力が結果としてクウェート側の心を動かし、有利な条件での交渉に繋がったと言えます。
緊急で会議が開かれ、リークされた情報を基に新たな交渉案が作成されました。そして5月3日に最終決定を下す王族会議が開かれることが発表されました。会議は3日に開かれましたが、決定は再び延期され、5日になってようやく嬉しい報告が届きました。一行は落ち着かない時間を過ごし、利権を手に入れた時の喜びは言葉にできないほどで、みんな抱き合って大声で泣いたと言われれいます。
しかし、利権を手に入れただけでは問題は解決しておらず、取得した地域から実際に石油が採掘できるかどうかが今後の大きな課題でした。太郎にとっては、再び冒険の瀬戸際に立たされた瞬間であり、彼の挑戦はまだ終わらないことを意味していました。すなわち、石油の採掘作業が開始されることになるのです。
石油発掘作業
作業開始時、最初のステップとして太郎とそのチームは、石油脈の位置を特定することから始めました。これには、アメリカに本拠を置く実績のある専門企業に依頼することとなりました。石油の採掘には不確実性が伴い、初回の掘削で石油が出ることは珍しいとされています。もし最初の掘削で石油が発見できなければ、二本目、三本目とさらなる掘削が必要となります。こうした状況の中、資金がどれだけ持続するかが重要な問題となっていました。
また、このプロジェクトは、サウジアラビアとクウェート両国との合意に基づき、日々のレンタル料を支払う必要がありました。これはつまり、何もしなくても、毎日300万円が消費されるという状況でした。昭和30年代当時の300万円は、現代においても非常に大きな金額です。そのため、太郎は一刻も早く石油を採掘したいと切望していました。
利権獲得から1年以上経過した7月に、いよいよ本格的な作業が始まり、第1号井の掘削作業がスタートしました。作業開始から10日余りが経過した8月3日、突如として泥水が勢いよく吹き出し始めました。一同は期待に胸を膨らませましたが、吹き出してきたのは天然ガスと泥水に混じった岩石片や砂利でした。さらに、吹き出す天然ガスが自然発火し、激しく燃え上がりました。油性の火災は消火が非常に難しいため、アメリカから火災消化の専門家が駆けつけました。彼らの助けを借りて10日後、ようやく火災は収束しました。
火災そのものは石油が存在する証拠としては歓迎できるものでしたが、一方で機材の損失や補充に要する時間は大きな痛手でした。火災の後始末が済み、設備が整ってから再び掘削作業が開始されたのは、火災から4ヶ月後の11月29日でした。再開された掘削作業は慎重に進められ、海底に眠る石油に向けて着実に進展していきました。
世界最大の油井発掘
昭和35年、アラビア石油の東京本社では、新年を迎えてからずっと緊張感が漂っていました。スタッフ全員が、現地からの重大なニュースを心待ちにしていたのです。1月29日、ついに太郎のもとに切実な連絡が入りました。遠く離れた地で、石油が勢いよく噴出したとの報せでした。太郎は興奮のあまり、部屋の中をぐるぐると歩き回り始めました。誰かが語った話によれば、太郎は喜びのあまり、立て続けに100本もの電話をかけたと言います。
また、その夜、太郎は興奮冷めやらぬ状態で、眠ることができなかったといいます。第1号井は、1日あたり1000トンの原油を産出する能力があり、これは世界的に見ても一流の油田でした。その量は、日本の当時の油井約3500本分に匹敵するほどでした。この大発見の日は、太郎が石油探査に着手してからちょうど4年が経過した日でした。
太郎は記者会見を開き、今後1年間において、追加で8本から9本の井戸を掘る予定であることを発表しました。彼はまた、日本の石油消費量の4分の1をこの油田から賄うことができるとの見通しも示しました。これまで多くの人から冷笑されてきた太郎でしたが、この日ばかりは誰も彼を笑う者はいませんでした。
第1号井から石油が掘り当てられたことは、世界的に見ても稀有な成功例でした。さらに、その後掘られた第2号井、第3号井、第4号井すべてが成功し、原油を産出しました。これは紛れもなく幸運な出来事でした。
昭和36年4月には、アラビア石油自らの手によって掘り出されたカフジ原油2万トンが輸送され、初めて日本の地を踏みました。これにより、太郎と彼のチームの努力が実を結び、新たなエネルギー源が日本にもたらされることとなりました。
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太郎の人生は、彼が自らのルーツに誇りを持ち続けることからも理解することができます。彼は、自分が楠木正成の子孫であるという事実を何よりも誇りに思っていました。楠木家の10代目、楠木正友の孫が秋田県の大館に移住し、これが太郎の家系である山下家の始まりとなりました。昭和10年は、楠木正成が湊川で討ち死にしてから600年目に当たり、その記念として湊川神社では盛大な式典が催されました。太郎はこの特別な時期に、湊川神社に大きな鳥居を寄付しました。この鳥居は石で造られ、日本一の大きさを誇るものでした。しかし、翌年、突如として大きな音を立てて崩れ落ち、現在では両側の柱二本だけが残っています。
楠木正成は、成功や失敗を計算に入れず、戦いそのものに意義を見出し、真っ直ぐに前進した偉大な人物でした。太郎と楠木正成は、生きた時代や職業が異なるものの、どちらも自らの信念を貫き通した人生を送ったと言えるでしょう。
アラビア太郎の生涯を振り返ると、彼の強い信念と情熱が、困難な状況にもめげず、最後まで突き進む力を彼に与えていたことがわかります。彼の物語は、私たちにとって大きな刺激となり、人生をどのように生きるべきか考えさせてくれます。太郎のように、自分の信じる道を突き進み、誇りを持って生きることの大切さを、彼の物語を通じて再認識させられました。
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