本日は、約2000年前のローマ時代の哲学者、セネカの著書「人生の短さ」について紹介します。この作品は、我々の日常生活の中で、仕事や雑務に追われたり、怠惰な生活を送ることが、人生を短く儚いものにするという洞察を示しています。この哲学は、我々を無駄に時間を浪費させ、心を苦しめることから警告しています。
古代ローマの人々も、我々現代人と同じように、日々の時間があっという間に過ぎ去ることに驚き、怠惰に過ごした時間を後悔するなど、時間の流れの速さについて頭を悩ませていました。そんな中、セネカは「人生の短さ」において、我々が時間の使い方を再考すべきだと主張しています。彼によれば、時間の使い方次第で、人生はもっと長く、充実したものにすることが可能だというのです。
この古典的名著を通じて、セネカの人生観、当時の時代背景、そして作品自体の内容という3つの視点から、読者が更なる理解を深められるようにお伝えしたいと思います。普段古典を読まない方でも、この著作の中に息づく深い洞察と普遍的なメッセージを楽しむことができるでしょう。
約2000年という長い時間を生き続けてきたセネカの思想には、圧倒的なスケールと面白さがあります。ぜひ、その全貌を体感してみてください。そして、セネカの「人生の短さ」から学ぶ、時間と人生についての哲学を一緒に考えてみましょう。
セネカの人生と時代背景
今日は、紀元前の古代ローマで活躍した哲学者、セネカについて掘り下げてみたいと思います。彼はおよそ2000年前、豊かな騎士階級の家庭に生まれ、幼少期からローマで修辞学や哲学を学びました。その後、政界に足を踏み入れ、30代で財務官となるなど、出世の道を歩みました。
しかし、彼の人生は決して順風満帆ではありませんでした。その才能が時のローマ皇帝の嫉妬を買い、殺されかけたこともありました。また、宮廷の陰謀に巻き込まれ、流刑という重い刑罰を受け、コルシカ島に流されました。しかし、そこで彼は自由な環境を享受し、学問と著作に没頭することができました。
島で8年が経過した頃、彼の流刑が解かれ、ローマへの帰還が許されました。その後、ローマ皇后アグリッピーナから、彼女の子供の教育係となるよう頼まれることとなります。彼女は自分の子供を次の皇帝にするために、セネカの知恵と人望を頼りにしたのです。
当時49歳のセネカは、政治の世界で泥臭い争いを続けるよりも、哲学の世界に没頭し、余生を楽しむつもりでした。しかし、彼は渋々教育係の役割を引き受け、政治の世界に再び身を投じることとなります。
そして、彼の教育とアグリッピーナの策略により、その子供は16歳でローマ帝国の皇帝となりました。その子供こそ、暴君ネロであり、その名は歴史に刻まれています。
セネカは、ネロの補佐官となり、持ち前の能力を発揮し、若き皇帝を支え続けました。そして、その甲斐あってか、ネロは初めの数年間、素晴らしいリーダーシップを発揮しました。しかし、即位から5年ほど経つと、ネロは人々が扱いきれないほどの残虐な人物に変わりました。彼は自分の妻や母親であるアグリッピーナを殺し、ローマに火を放ち、キリスト教徒を迫害するなど、彼の統治は圧政と化していきました。
このような状況を目の当たりにしたセネカは、ネロを見限り、政治の世界から引退を決意しました。そして、ついに彼が望んでいた哲学の世界に深く没頭することができるようになりました。
セネカはストア派の代表的な哲学者として知られています。ストア派とは、「ストイック」の語源ともなっている学派で、禁欲主義を特徴としています。彼の人生は禁欲主義の精神を体現するものであり、困難や挫折を乗り越えて、自己を高め、知識を深めることを追求しました。
「人生の短さについて」を理解するために
「人生の短さについて」を理解するために必要な前提知識としては、この作品がパウリヌスという男性に宛てた手紙形式で書かれている点を押さえておくことが重要です。パウリヌスは当時のローマ帝国の穀物管理事業の責任者で、その職務により多忙を極めていました。この点は、セネカが彼に向けて「働きすぎだから休んだほうがいい」と忠告をしているという作品の設定を理解する上で大切な情報となります。
ローマ帝国の時代は自給自足が難しく、国家が穀物を輸入し、国民に無償配給するシステムをとっていました。これは現代で言えば、ベーシックインカムのようなものといえるでしょう。パウリヌスはこの穀物配給事業の責任者として、非常に忙しい生活を送っていました。
この作品は、パウリヌスだけでなく、働きすぎている自分自身への警鐘としても書かれています。セネカは、自分もまた忙しさに追われる日々を送っていたので、彼自身が「働きすぎだから休んだほうがいい」というメッセージを必要としていたのかもしれません。
これらの背景知識を踏まえて、「人生の短さについて」を読むと、セネカが伝えたかったメッセージや彼の思想をより深く理解することが可能になります。
人生の短さについて
セネカの「人生の短さについて」という作品を深掘りしていきましょう。読み進める中で、セネカの考えがどのように我々の日々の生活に影響を及ぼすのかを、リラックスした雰囲気で探っていきたいと思います。
セネカの手紙をパラパラめくってみると、人々の口からよく聞こえてくるのは、「ああ、人生って短いなあ」、「時間はあっという間に過ぎていく」、「これからだと思ったら、もう時間がない」などという嘆きの声。確かに、人生の短さを嘆くのは我々人間だけではありません。医学の父ヒポクラテスや哲学者アリストテレスなどの賢者たちも同じように感じていました。
しかし、セネカはこのような自然の摂理に対して不満を言うこと自体が理解できないと語ります。彼によれば、人生は本来短いものではなく、私たちはみな、偉大な業績を成し遂げるのに十分な時間を等しく与えられている。人生を短いと感じるのは、ただ自分自身が時間を浪費しているからに過ぎないのだと。
例えば、大金持ちでもお金の使い方を知らなければ、その財産はあっという間になくなってしまいますよね。人生の時間もそれと同じ。時間をうまく使うことで、ゆとりのある人生を送ることが可能になります。
しかし、多くの人々は自分の無尽蔵な欲望や他人からの評価を求める欲求に捉われ、時間を浪費してしまっています。これを具体的にイメージするために、自分の財産が他人に侵害されたらどう反応するでしょうか?多くの人はそれを防ぐために必死になるはずです。なぜなら、自分の財産を他人に喜んで差し出す人はほとんどいないからです。にもかかわらず、なぜ人々は自分の時間という最も価値ある財産を軽々しく他人に譲ってしまうのでしょうか。お金に対しては無駄遣いを控えている人でも、時間になると見境なく浪費してしまう。これは実に不思議なことですよね。
セネカが言っているのは、金や土地を無駄遣いすれば貧乏になるように、人生の時間も浪費すればその分だけ短くなるということです。そして、セネカが「浪費」と呼ぶのは、欲望に溺れること、仕事に追われること、怠惰に過ごすこと、他人の目を気にして神経をすり減らすことなどです。こうしたことに我々は日々耳を傾けていますが、それが我々の時間を浪費し、人生を短くしているのです。
それは、例えば、セネカが自身の全ての財産を国に寄付するという交換条件で皇帝ネロに引退を願い出たとされているエピソードからも分かります。彼が説いている「自分の時間を他人に譲らない」というメッセージは、彼自身の生き方からも見て取ることができます。
さて、ここからは自分の人生をどれだけ自分のために使ってきたのか、どれだけ他人に奪われてきたのか、ひとつひとつ見直してみましょう。多くの人は、自分の寿命が全うする前に、すでに一部が失われていることに気づかないかもしれません。なぜなら、自分は永遠に生きることができると思い込んで生きているからです。だからこそ、自分の時間がどれだけ失われたかについて考えることさえないのです。
「50歳になったら今の仕事を辞める」「60歳になったら今の仕事から解放される」などと言っている人がいますが、長生きできる保証はどこにもありません。終わりの鐘が鳴ったときにやりたいことを始めるのでは遅すぎます。計画を練り上げて、老後まで行動を先延ばしにするのは、死すべき運命を忘れた愚かな行為だとセネカは語ります。
それゆえに、あなたが忙しくて時間が足りないと感じるなら、それはあなたが自分の生き方を見直すべき時が来ているのかもしれません。忙しい人ほど、生きるということ、つまり人生そのものを学ぶことをおろそかにしています。他の学問なら、教えてくれる人は山ほどいるでしょう。しかしどう生きるべきか、このようなことについては、自分自身が一生懸命学ぶべきです。
人生の長さは、自分の時間をどれだけ自分自身のために使ったかで決まるのです。だからこそ、ひとつひとつの瞬間を大切にし、他人に支配されることなく、一日一日をまるで人生最後の日のように過ごすべきなのです。
日々を忙しく過ごすと、人生はあっという間に過ぎ去り、気づいた時には死が訪れています。そして、好きだろうが嫌だろうが、死ぬための時間と向き合うしかなくなります。人生というのは、止まることのない旅のようなものです。起きていようが寝ていようが、その進行速度は変わらず、何かに気を取られていると、あっという間に終点にたどり着いてしまいます。
このセネカの教えを通して、私たちは自分自身の時間をどのように過ごすべきか、そしてその価値をどのように理解するべきかを考えるきっかけを得ることができます。時間という貴重な資源を自分自身のために最大限に活用し、一日一日を有意義に過ごすことが、豊かで充実した人生を送るための鍵となるのです。
セネカの時間についての考え
専門家たちは、セネカが時間についてどのように考えていたかについて、主に2つの観点を挙げています。まず一つ目は、「時間を無駄にしてはならない」という考え方です。時間は私たちが持っている最も貴重な財産であり、それを浪費することは許されないとセネカは主張しています。
二つ目は、「若い時期を無駄にしてはならない」という考え方です。人生には時間が限られており、いつ死ぬかわからないという不確実性が常に存在します。だからこそ、やりたいことがあるなら、それを遅くとも人生の後半に持ち越すことなく、若いうちに行動に移すべきだとセネカは説いています。
人生というのは過去、現在、未来の3つの時期に分けることができます。現在は一瞬で過ぎ去り、未来は不確定なものである一方で、過去は動かすことのできない、運命の力が及ばない特別な時間となります。しかし、忙しい人々は、過去という特別な時間をあたかも存在しないもののように扱います。それは彼らが忙しさに追われて過去を振り返る余裕がないからだけでなく、過去に起こった嫌な出来事を思い出したくないという気持ちも一因でしょう。
過去という時間は、私たちが持つ時間の中で唯一運命に支配されない神聖な時間です。欲望や不安や病気に悩まされることもなく、何かにかき乱されることもなく、誰かに奪われることもありません。過去という時間は私たちが完全に所有している財産なのです。現在という時間は一瞬であるのに対し、過去はすべてがあなたの所有物であり、好きな時に好きな量を取り出してじっくりと眺めることができます。
しかし、忙しい人々にはそれができません。過去をじっくりと振り返る機会を持たず、人生はあっという間に過ぎ去り、深い闇の中に消えていきます。それはまるで、底のない容器に水を注ぐようなもので、いくら水を注いでも満たされることはありません。私たちがどれだけの時間を持っていても、それが自分の心の隙間からこぼれ落ちてしまうなら、何も得ることはありません。
現在という時間は非常に短く、一瞬で過去という時間に置き換わってしまいます。星々が絶えず移動しているように、時間もまた絶えず流れ続け、私たちはその流れを止めることはできません。
しかし、多忙な人々は、捕まえることのできない現在の時間にしか関心を持たず、雑事に追われて現在の時間さえも奪われてしまいます。それに対して、自分のために時間を使い、世界から距離をとることができる人々は、充実した人生を手に入れることができます。そして、そのような人々は、人生の終わりが訪れても、迷うことなくその時を迎えることができるでしょう。
過去を振り返らないからこそ、人生は短く感じてしまうというのは興味深い指摘ですね。セネカが所属していたストア派の哲学では、自己反省という行為を重視しています。だからこそ、過去をゆっくりと振り返る時間を持てないほど忙しい人々は、彼にとっては非常に問題だったのかもしれません。
「時間を哲学に捧げる人こそが、本当に生きている」――真の人生とは何か
私たちは一日24時間、一週間7日、一年365日という時間を与えられています。しかし、その時間をどのように使うかは、私たち自身に委ねられています。そして私は、時間を哲学に割く人間こそが、真に生きている人間だと考えています。
では、なぜそう思うのでしょうか。それは、哲学を追求する人々が、自分自身の時間、自分自身の人生を守りつつ、過去の時間もしっかりと蓄積しているからです。彼らは時間を大切に使い、深深に考え、己の心と世界との関係性を理解することで、崇高な思想体系を築きます。そして、その思想体系を通じて、私たちにとって最も重要な問い――どう生きるべきか――への答えを示してくれます。
哲学者たちは、デモクリトスからアリストテレスまで、歴史上のすべての時代を通じて、私たちに対していつでも開かれています。私たちは書物を通じて、いつでも、どこでも、彼らとの対話に参加することができます。彼らは、私たちが訪れた時には、必ず幸せな気持ちにしてくれ、人生が終わる最後の瞬間までどのように過ごすべきなのかを教えてくれます。そして、彼らが過ごした時間を私たちの時間に積み上げてくれます。これこそが、真の友人、真のメンターというものです。
しかし、過去を忘れ、現在を無視し、未来を恐れる人々は、極めて短く、不安だらけの人生を歩むことになります。彼らは、長い時間をただ無意味に忙しく過ごしているだけで、その意味や価値を見失っています。そして、その結果、彼らは人生の終わりに、自分がどのように時間を過ごしてきたのかに気づくのです。
だからこそ、私たちは哲学と対話を深め、自分自身の人生を見つめ直すべきです。偉大な哲学者たちと共に、自分がどう生きたいのか、どのように最期を迎えたいののかを真剣に考えること。それこそが、私たちが真に生きるための道しるべとなるでしょう。
ショーペンハウエルの「読書について」という作品にも、この考え方は共通しています。彼は、良書を選んで読むことが重要であると主張しています。特に、古代ローマの哲学者たちの著作は、全く外れがなく、すべてが価値ある知識と洞察に満ちていると彼は語っています。彼らの著作を読むことで、私たちは過去の偉大な哲学者たちと対話し、自分自身の人生について深く考える機会を得ることができます。
セネカからパウリヌスへの手紙
最後にセネカがパウリヌスに宛てた手紙の内容を書いていきます。
「君はこれまでに十分に厳しい環境で仕事をしてきた。荒波にもまれ、常に気を抜くことなく過酷な任務を果たしてきた。その労働は見事なものだと誰もが認めている。だからこそ、私から一つ提案をさせてほしい。そろそろ、安全な港に船を寄せ、少しだけ自分自身のための時間を過ごしてみてはどうだろう。
君には人徳があり、それは誰もが認めている。その能力を仕事だけでなく、自分自身のために使うことも大切だ。私が言いたいのは、怠惰な生活を送ることではない。君のその持ち前の活力を、惰眠や遊びのために浪費することも、私が進めていることではない。
私が君に伝えたいのは、職務から一歩離れ、穏やかで自由な生活を送ることの大切さだ。それによって、君はこれまで精力的に取り組んできた仕事の存在をより深く理解することができると私は信じている。そして、その理解こそが、君の人生をより豊かにするのだ。
君がどれだけ誠実で堅実に仕事をしてきたか、それは私もよく理解している。だが、私が君に求めるのは、それだけではない。君がどれだけ優れた穀物管理者であるかよりも、自分の人生をどのように生きるべきかを知ることの方が、人間にとってずっと大切なことだと私は思っている。
君が今まさに手にしている職は、確かに名誉あるものだ。しかし、それが必ずしも君の幸せな人生を保証してくれるものではない。だからこそ、君のその優れた能力と活力を、もっと重要なことに使うべきなのだ。
若い頃から努力し続けてきた君が、今後もずっと穀物の安全管理を行うためだけにその力を使うのは、もったいない。君が志を立てて努力してきた目的は、もっと大切なもののためだったはずだ。君のような優れた人材が、もっと神聖で崇高な仕事に挑むべきだと私は信じている。
優れたサラブレッドに重たい荷物を運ばせてその俊足を封じ込めるのはもったいない。君の才能と活力は、穀物の管理だけでなく、もっと大切な事に使われるべきだ。
だからこそ、私から君への提言だ。今こそ新たな旅立ちの時が来ている。君の血が熱く流れているうちに、新たな道へと進むべきだ。それが君自身のためでもあり、そして社会全体のためでもある。」
セネカの引退と最期: ローマの哲学者の壮絶な最後
ローマの名高い哲学者であるセネカは、彼が皇帝ネロから政治の世界を引退すると宣言した時、61歳でした。そして、彼がこの世を去ったのは64歳という、一見すると早すぎるとも思える年齢でした。しかし、この死は寿命によるものではなく、皇帝ネロの命令によるものでした。
皇帝ネロは、自身の政権を脅かす可能性のある人物を排除するため、暴君として知られていました。その彼がセネカに自害を命じた理由の一つは、皇帝暗殺計画に関連していたという疑惑がありました。
この計画は、ネロの振る舞いに反感を持つ者たちによって策定されましたが、情報が漏れて失敗に終わりました。それにもかかわらず、ネロは自身の生命が脅かされる可能性を極度に恐れ、教育者であったセネカにまで疑いの目を向けました。そして、ネロはセネカに対し、自ら命を絶つように命じました。
当時のセネカは、弟子や仲間たちに囲まれており、ネロの命令により突然自害を迫られた際、彼は冷静さを保ち続けました。そして、彼は自らの命を絶つ前に、仲間たちに向けて最後の言葉を残しました。
「君たちに感謝の言葉を残したかったんだが、どうやら時間が来てしまったようだ。ならば今私が持っているものの中で最も美しいものを君たちに残していく。それは私が今こうして生きているという姿だ。」
この言葉は、セネカの人生観を端的に示しており、彼が自身の運命を受け入れ、死を迎える様子は、多くの人々に深い印象を残しました。
セネカは最後まで自分の命を自分で終わらせることを選びました。刃物で手首を切りつけたり、毒薬を飲んだり、最終的には熱湯に身を投じたと伝えられています。
17世紀以降のヨーロッパで数多くの画家が彼の死をテーマにした作品を残しています。上の絵画はバロック美術を代表する天才画家 ピーテルパウルルーベンスるよる 「セネカの死」というタイトルの作品です。
彼の死から約30年経ってようやくローマ帝国は混迷の時代を脱出し平和と繁栄の 時代すなわち五賢帝時代に突入します 。
まとめ
セネカの代表的著作である「人生の短さについて」とその歴史的背景や彼の生涯まで幅広く紹介をさせていただきました。もしこのブログでについてご興味を持っていただけた方がいらっしゃいましたら ぜひ実際に作品に触れてみてください !!偉大なる権者との時間は何物にも代えがたい財産になるはずです。
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