奴隷から総理大臣になった偉人!【二・二六事件の犠牲者】窮地に陥った日本を三度救った偉人・高橋是清の生涯
2023年、今から遥か遠く昭和11年の2月26日、日本が揺れに揺れた日を思い起こしてみてください。それは、若き陸軍青年将校たちが舞台に立つクーデター未遂事件、通称「226事件」の発生日でした。その出来事は、多くの犠牲者を出しましたが、その中でも特に日本中を悲しみの渦に巻き込んだ一人が、高橋是清でした。その理由は彼が、何と三度も日本を危機から救い出した、まさに英雄だったからです。
しかし、私たちは一体何を知っているのでしょうか? 日本を救った具体的な危機とは何だったのでしょうか? また、なぜ高橋は226事件で犠牲となったのでしょうか? 今回は、その高橋是清の人生の波瀾万丈を辿りながら、これらの疑問を解き明かしていきたいと思います。
多くの方々にとって、高橋是清という名前は聞き覚えがあるかもしれませんが、彼が実際に何をしたのか、その詳細までは分からないかもしれません。彼は明治から昭和にかけて、日本銀行総裁、立憲政友会総裁、内閣総理大臣、大蔵大臣、商工大臣、農林大臣と、日本の重要なポストを歴任した人物でした。その功績は非常に高く評価され、昔の50円札に彼の肖像画が描かれていました。しかし、彼の生涯は意外にも波乱に満ちていました。
高橋是清について僕が知ったのは、
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苦難を乗り越え、日本を救った英雄の卓越した人生
1854年、まだ日本が江戸時代の頃、高橋是清は幕府の重役、川村正右衛門と芳香中金の間に生まれました。しかし、彼がまだ乳児の頃、仙台藩の名門、高橋家に養子として出されることになります。仙台藩は西洋学を推奨しており、才能豊かな若者をアメリカに留学させる計画があったのです。高橋はその候補生に選ばれ、最初の2年間を横浜のヘボン塾で英語を学び、その後1年間をボーイとして働いた後に、ついにアメリカへの留学の機会を掴みました。同行したのは、勝海舟の息子である小禄でした。
しかし、14歳の彼を待っていたのは、予想以上の困難な生活でした。彼のアメリカでの居住先は、横浜の貿易所バンリードの提案で、彼の実家が監督する場所でした。しかしこの所での生活は、家事や農作業に追われる厳しいもので、供される食事も粗末なものばかりでした。しばらくして、彼はリード家の計らいで、ブラウン家に移ることになります。しかしその際、彼は奴隷として売られる契約書に署名をさせられました。ここから、彼の奴隷としての生活が始まります。日々、牧場や農園で朝から晩まで働き、学校にも通えず、何度も奴隷先を転々とする苦難の日々でした。
しかし、彼はその中で英会話や読み書きを身につけ、人脈を広げていきます。そして、その人脈を頼りに奴隷契約を破棄させ、自由の身となることに成功します。奴隷生活を脱出した彼は、明治維新が進行する日本に帰国します。
帰国後、彼はサンフランシスコで知り合った森有礼の勧めで文部省に入省します。また、流暢な英語を話す彼は英語教師として、多くの生徒を指導します。その中には後の大物となる秋山真之や正岡子規なども含まれていました。
しかしながら、彼の人生は順風満帆ではありませんでした。彼は酒と女遊びに溺れ、仕事を失うなどの失敗も経験しました。その後、彼は芸妓の家に身を寄せ、ひと時の安息を見つけました。しかし、彼は立ち直り、大蔵省や特許局で活躍することとなります。特に特許局では局長にまで昇進し、日本の特許制度の確立に大いに貢献しました。
高橋の若い頃の経験は、彼が大蔵大臣として後々生かすこととなる知識と経験をもたらしました。特に、若い頃に大損をした相場での失敗は、後の大蔵大臣としての彼にとって重要な教訓となり、相場のメカニズムを徹底的に追求する契機となりました。
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困難を乗り越え、才能と強運で日本を救う
特許局長として活躍していた高橋は、新たな挑戦の機会に見舞われます。それは南米ペルーの銀山開発への投資の話で、彼は局長を辞職し、開発責任者として現地へ赴くことを決断します。当然、自身も出資をしていました。しかし、現地に到着してその全貌を目の当たりにした彼は、これが詐欺だと気づいたのです。その銀山はすでに数百年も前に掘り尽くされ、何も残されていなかったのです。
彼はこの事実を知り、直ちに契約を破棄します。そして、この被害が広がらないように全力を尽くし、日本に帰国します。しかし、この詐欺事件で大きな損失を被った彼は、自身の邸宅を売却し、無一文になります。
しかし、高橋の驚くべき点は、どんな困難な状況にあっても、必ずといっていいほど彼を支える理解者が現れることです。それは彼の才能と努力が評価され、人々の信頼を勝ち得ていた結果でした。この時も川田小一郎が彼に声をかけ、日本銀行への入行の道を開いてくれました。
日本銀行に入行した高橋はすぐにその才能を発揮し、わずか2年目で日銀の西部支店の支店長に就任します。さらに、彼は日銀の国際金融部門だった横浜銀行の再建にも成功しました。そして、彼の実績を評価した結果、高橋は日銀副総裁となりました。これらの出来事は、彼が日銀に入行してからわずか6~7年の間に起きたことです。これは彼の非凡な才能を示しています。
彼の成功にはもう一つ重要な要素がありました。それは、彼自身が常に口にしていた「強運」でした。これまでの彼の実績、そしてこれから彼が成し遂げる偉業は、彼がどれだけ強運に恵まれていたかを証明しています。彼は、困難に直面した日本を何度も救うことになるのです。
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日露戦争の資金調達とその後の躍進
高橋の功績として特筆すべきは、日本が窮地に立たされた際に救い出したことです。特にその一つとして、日露戦争の戦費調達が挙げられます。
日露戦争を勝利に導くためには、当時の価格で約4億5000万円という巨額の費用が必要でした。しかし、その時期の日本の財政状況では、全額をまかなうことは難しく、戦費の3分の1、つまり約1億5000万円を外貨で調達する必要がありました。
日本銀行の保有外貨は5000万円程度で、その差額1億円を海外から借り入れる必要がありました。しかし、大国ロシアとの戦争に挑むアジアの小さな島国、日本が勝利する可能性は低いと多くの人々は見ていたため、資金調達は困難を極めました。この問題を解決できなければ、日本はロシアに対して敗北を喫することとなる、まさに絶体絶命の状況でした。
そんな中、最後の頼みの綱となったのが、世界の金融大国であったイギリスでした。しかし、イギリスからの資金調達には多大な困難が予想されました。ここで重要な役割を果たしたのが高橋でした。彼は英語が堪能で、国際金融に精通しており、何よりも行動力と度胸のある人物でした。だからこそ、彼がこの大任を果たすために選ばれたのは自然な流れでした。
イギリス側は当初、次の3つの理由から資金提供に難色を示しました。1つ目は日本の支払い能力に疑問があること、2つ目は日本がロシアに勝てるかどうかに不安があること、そして3つ目はロシアに対して中立国であったイギリスが中立違反になる恐れがあることです。
しかし、高橋はそれらの疑念を払拭するために奮闘しました。返済については、関税収入を当てると説明し、日本が最後の一人まで戦い抜く意志があることを強調しました。また、過去に中立国が援助資金を提供した前例があることを示し、これらの努力を通じて、銀行および投資家からの資金調達に成功しました。最終的に、高橋は必要な戦費の40%以上を調達したとされています。
日本が日露戦争で勝利を収めた背後には、このような高橋の奮闘がありました。彼のこの大きな功績から、高橋は貴族院議員に推挙され、その後は日本銀行総裁に就任します。さらに大蔵大臣を経て総理大臣にまで昇りつめました。しかし、政党の分裂などの問題が起きたために、彼の内閣は半年で瓦解しました。
昭和金融恐慌と世界恐慌への対応
高橋は政界を引退していましたが、日本は再び彼の知識と経験を必要としました。それが昭和金融恐慌の時期でした。戦後不況が続く中で、銀行が多数の不良債権を抱え、特に中小銀行の経営状態が悪化し、社会全体に金融不安が広がっていました。このような時期に、当時の大蔵大臣、片岡が銀行の破綻を示唆し、国民がパニックに陥り、預金の取り付け騒ぎが起こりました。
そこで70歳を過ぎた高橋が大蔵大臣として再びステージに登場しました。騒動を収束させるためには、彼の知識と経験が必要不可欠でした。高橋は、独自のアイディアでこの危機を解決しました。彼は、全ての銀行を2日間休業させ、3週間の支払い猶予期間を設ける緊急勅令を出しました。
その後、銀行が再開された時には、カウンターには大量の札束が積まれていました。これを見た国民は、銀行に十分な現金があると安心し、騒動は沈静化に向かいました。しかし、この時積まれた札束は一面しか印刷されていない偽物でした。限られた時間で大量の紙幣を用意するための苦肉の策でした。その優れたアイディアで、高橋は再び日本を救ったのです。
金融危機を乗り越えると、高橋は再び大蔵大臣の職を辞して隠居生活に戻りました。しかし、その後も日本は彼を必要としました。ウォール街の株価暴落により引き起こされた世界恐慌は、日本にも影響を及ぼし、デフレ不況に陥りました。さらに当時の内閣の金解禁政策が日本の景気をさらに悪化させました。
再び大蔵大臣に任命された高橋は、金輸出の禁止、公共事業の推進、低金利政策の実施、そして赤字国債の発行を断行しました。これらの政策により、次第に経済が回復し、日本はデフレ不況から脱出することができました。高橋の存在がなければ、今の日本は存在しなかったかもしれません、と言っても過言ではないでしょう。
高橋是清の死と2・26事件
日本全国が衝撃を受けた「二・二六事件」が発生し、その中で日本の英雄である高橋是清が命を落としました。高橋は日本がデフレから脱却した後、懸念材料となっていた軍事予算の削減に取り組みました。日本が戦争に勝利し、現在の地位を確立した背景から、軍部の存在感は非常に大きくなっていました。高橋の予算削減政策に対して、軍部は強く反発しました。
高橋自身、国防の必要性は理解していましたが、予算には限りがあり、何とか折衷案を見つけて解決に至りました。しかし、軍部の中には財政感覚を理解できない者たちもおり、予算削減を行った高橋を敵視するようになりました。そして、この緊張が爆発したのが「二・二六事件」でした。
ただし、二・二六事件は単純な事件ではありません。これまでの高橋が救った窮地や彼が苦労して救った人々のための取り組みも、一つの大義名分として存在します。それぞれには、自身の正義が存在します。ある意味で、高橋もその一つの正義の代表者であったはずです。
ところが、二・二六事件では、青年将校たちは彼の自宅に押し入り、彼を襲撃しました。高橋是清は銃弾を受け、その生涯を閉じました。彼は83歳で、日本を幾度も窮地から救った英雄としての役目を全うしましたが、不幸にも革命の犠牲者となってその生涯を終えました。
「二・二六事件」について詳しく解説すると、これは昭和11年(1936年)に起こったクーデター未遂事件で、青年将校たちが起こしました。彼らは日本の社会・政治改革を目指し、軍事予算の削減など政府の政策に反対して蜂起しました。しかし、このクーデターは失敗に終わり、彼らは厳しく処罰されました。この事件は日本社会全体に大きな衝撃を与え、またそれは戦時体制への移行を加速させる一因となりました。
まとめ
高橋は常に前向きな姿勢を保ち、自身の運命を信じて絶えず努力し続けました。彼は「必ず強運が向くと信じて、客観的に物事を見つめれば、新たな道が開かれる」との言葉を残しています。この言葉は、高橋自身の生き様を端的に表しています。彼は確かに不運に見舞われることもありましたが、その度に強運を引き寄せ、困難を乗り越えてきました。そして、その強運は決して偶然に訪れたものではなく、彼自身の持続的な努力が引き寄せたものでした。
どんな困難な状況に直面しても、自身の運命を信じ、努力し続けた結果、高橋は日本を数々の窮地から救う英雄となりました。彼の別の強みは、経験に基づいた深い洞察力でした。その豊富な経験から、経済や財政が形式的な理論通りには進まないということを学びました。理論だけでなく、現実の経験と洞察が重要だと彼は教えてくれます。これは言うまでもない事かもしれませんが、それが高橋の言葉から聞こえると、何故かその説得力は増します。それは、彼がその言葉を自身の生き様で実践して見せたからこそです。
私たちは高橋是清の人生と業績から多くの教訓を学ぶことができます。彼の遺した言葉と行動は、私たちにとって永遠の指導原則となります。
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