クルド人はなぜ迫害されるのか?

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クルド人はなぜ迫害されるのか? 先日、埼玉県蕨市で外国人排斥を求めるデモが起きました。これにクルド人が反発している様子の動画が拡散され、「日本人死ね」と言っているように聞こえると話題になりました。クルド人と聞いてもあまり馴染みがないかもしれませんが、中東にはクルディスタンという地域があります。ここにクルド人が多く住んでいます。しかし、世界地図を見てもクルディスタンという国名は出てきません。それもそのはずで、国のような名前ですが正式な国ではありません。昔からクルド人が住んでいる地域がそう呼ばれているだけです。その範囲を見てみると、トルコ、シリア、イラク、イラン、アルメニアと、クルディスタンは多くの国にまたがっています。その人口も3000万人に登るとされていることから、国を持たない最大の民族とも呼ばれています。しかし、彼らはなぜ国を持たないのでしょうか。そもそもクルド人とは何者なのでしょうか。

クルディスタンの地理と歴史

トルコ南東にはバンコという大きな湖があります。その広さはなんと琵琶湖の約5.5倍です。水面は標高1640mにあり、一帯は険しい山岳地帯です。クルディスタンという地域はそのバンコの周辺、トルコ南東の高原地帯からシリア東部、イラク北部やイラン北西部にまたがる地域です。クルド人のほとんどは険しい山岳地帯に住み、大昔から農牧をなりわいとしています。部族長に従う部族社会でもあり、言葉はペルシャ語に近く、宗教は大半がイスラム教のスンナ派に属しています。

歴史に名を刻んだクルド人

突然ですが、高校時代、世界史の授業を受けていたら有名なクルド人について習っているはずです。その人物はイスラム世界最高の英雄とも呼ばれます。イスラム教の聖地エルサレムを1187年にヨーロッパの手から奪還しました。彼は敵に対しても公正かつ寛大に振る舞ったとされていて、様々な逸話やその美談から映画やドラマの主役にもなりました。そんな彼の名はサラディンです。このように知られていないようで、実は歴史にも名を刻んでいるクルド人ですが、彼らが誕生したのはいつ頃でしょうか。

クルド人の起源

実はクルド人の起源は諸説あり、これだと断定することはできません。アラビア語で書かれた古典文献で登場するのは大体7から8世紀頃です。7世紀前半はイスラム教の教祖であるムハンマドがアラビア半島を統一した時代です。ムハンマドのもとでイスラム教徒になったアラブ人は、ムハンマドの死後、西アジアを中心に広大な領域を征服しました。この征服活動に関する伝承を集めた『諸国征服史』という歴史書にクルド人のことが書かれています。ムハンマドの後継者ウマルの時代、イラク北部を征服したアラブ人軍団がその周辺にいたクルド人集団を打ち破りました。こうした記述から、7世紀にはイラク北部からイラン北西部の山岳地帯にクルドと呼ばれる集団が存在したことが分かっています。

クルド人への否定的な見解

他にもアラビア語で書かれた文献にはクルド人が度々登場しますが、そのイメージは良いものではありません。例えば、イスラム教の経典であるコーランには「激しい力を持った民」という記述があります。この記述がクルドを指しているのではないかと考える学者もいます。その学者はクルドのことをペルシアの「アーラ」と解釈しています。「アーラ」とはアラブ系遊牧部族のことです。コーランでは「アーラ」は不信仰と偽信仰がさらに激しいと非難されています。つまり「アーラ=クルド人」は文明や信仰から隔たる粗野な人たちだと見なされていたということです。その理由は、彼らがアラブ人とは違う言葉を話していたこと、そして山で遊牧的な生活を送っていたことです。このことからクルド人は荒々しくて無知な奴らだと見なされていたと考えられます。

クルディスタンの地理的な位置づけ

アラブ人の感覚からすると、クルド人は自分たちとは違う存在だと見ていたのでしょう。クルド人が暮らすクルディスタンは歴史的にオスマン帝国とイラン王朝の支配領域に位置する地域でした。16世紀初頭、オスマン帝国と当時のイランを支配したサファーヴィー朝はコーカサスから東アナトリア、クルディスタン及びイラクを巡って争っています。その後も時代ごとにオスマン帝国とイラン王朝は領土争いを続け、16世紀から19世紀にかけて5度の和平を結んでいます。つまり、話し合いやルールで争いを何とか解決していたのです。

クルド人の分断

とはいえ、初期の頃は今とは違い明確な国境は存在しませんでした。おそらくクルド人たちも比較的自由に境界を越えて生活を送ったと考えられます。しかし、これがずっと続くことはありませんでした。国と国の境目はきっちりと分けるべきだという価値観が世界中に少しずつ浸透していきます。19世紀には戦争による国境が引かれるようになり、国は領域内の国民の管理を求められるようになります。オスマン帝国そしてイランの諸王朝の狭間に暮らすクルド人は今のような国境で分断されたのです。この出来事こそクルド人が国を持てない大元の原因でしょう。クルド人は2つの大国の取り決めによって無理やり住む場所を決められてしまいました。広範囲の山岳地帯がそのままクルディスタンとして独立することは難しくなったのです。

クルド人の独立の夢と挫折

さて、分断された後のクルド人はどうなったのでしょうか。実はこの後が重要で、今に至るクルド人問題の発端となる出来事が起こりました。時は第一次世界大戦後、場所はオスマン帝国、今のトルコです。ここでクルド人に独立のチャンスが訪れました。クルド人に何があったのかをお話しする前に、オスマン帝国に何が起こったのかを知っておく必要があります。

1918年、第1次世界大戦に敗れたことでオスマン帝国の領土をどうするのかという話し合いがされていました。もちろん、オスマン帝国に住む国民は国が崩壊しても住む場所を奪われたくはありません。しかし、皇帝はそうは思いませんでした。自らの身の安全とわずかに残りそうな領土で自らの権力を残そうと考え、奪われそうな領土はあえて差し出してしまうという判断をしたのです。このオスマン帝国の事実上の解体とも言えるセーブル条約の内容には、国民が猛反発します。そして、この条約の締結を拒

否しようと立ち上がったのがムスタファ・ケマルを中心とする組織です。ムスタファ・ケマルはオスマン帝国軍の将軍でした。

ケマルたちは新政府を立ち上げ、頼りない皇帝に代わり国を守るために戦い始めます。自分のことしか考えない皇帝と国を思うケマルたち。国民に支持されたのはケマルたちでした。ケマルたちはトルコに攻め込んできたギリシャ軍を打ち破ります。するとそれを見た諸外国は、皇帝よりケマルと話をするべきだと考えました。ケマルはこの交渉を有利に進め、セーブル条約を破棄すると1923年にローザンヌ条約を締結します。これにより現在のトルコの国土保持に成功したのです。ここまでがオスマン帝国の崩壊からトルコ共和国建国までの流れです。

クルド人視点で見る歴史

これをクルド人の視点で見てみるとどうなるでしょうか。先ほどの説明にあったように、まずオスマン帝国の皇帝が連合軍と結んだ条約がセーブル条約です。この条約ではオスマン帝国領はアナトリアの一部が残されるだけとなりました。そして注目したいのがクルディスタンについてです。この条約ではオスマン帝国支配下にあったクルド地域の一部ではありますが、その自治が認められました。しかもクルディスタンは1年以内に住民の過半数が希望すればトルコから独立できるというものでした。もしセーブル条約が守られていれば、クルディスタンは独立していたかもしれないのです。

ですが、ムスタファ・ケマルは立ち上がり国を守るために戦いました。新たな講和条約を取り決めるためスイスのローザンヌで会議が開催されたのです。セーブル条約は守られることなく破棄され、ローザンヌ条約が締結されたことでクルドの独立は果たされないまま無効となったのです。クルド人の独立という夢は果たされませんでした。それと同時にトルコはクルド人に対して同化政策を押し進めました。例えばクルド語の教育や出版、放送の禁止。他にも法廷や役所などの公的な場でのクルド語の使用禁止です。クルド語が由来となっている地名がトルコ語の地名に変えられたり、挙句の果てにはクルド人は「母国語を忘れた山岳トルコ人」というレッテルさえ貼られました。つまりクルド人という民族そのものまで否定されることになってしまったのです。

トルコにおける同化政策

トルコは自国にクルド人が存在している事実を消し去ろうとしました。なぜならトルコは西洋のように国民が一つにまとまった力強い国を目指していたからです。イギリス人の国イギリス、フランス人の国フランスのようなイメージで。だからクルド人の存在や歴史はトルコという新しい国づくりをする上で都合の悪いものでした。トルコ共和国はムスタファ・ケマルを筆頭とするトルコ人で成し遂げたトルコ人の国でなければならなかったのです。

他国のクルド人の状況

では他の国のクルド人はどうなったのでしょうか。まずはイランです。イランはトルコ、シリア、イラクとは違い、長い年月をかけて成り立った国です。元をたどれば16世紀にサファーヴィー朝という王朝によってその基礎が築かれました。イスラム教シーア派を国教としていて、現在のイランの中心となる価値観を定めたのがこの王朝です。王朝が倒れた後も体制は変わってもその価値観とイランという枠組みは変わらず残り続けました。このことがイランに住むクルド人にも影響を及ぼしています。500年にわたる長い年月によってクルド人たちも自分たちはイランの一員だと考えるようになっていったのです。またイラン政府は自国に暮らす多くの民族を基本的に認めています。とはいえクルド語での教育や出版などは制限されるなど、クルド地域に対する政府の圧力は存在したことは事実です。このことから第2次世界大戦中には自治要求運動が起こっています。

対戦直後の1946年にはイランのクルド地域の一部にクルディスタン共和国という自治政府が成立しました。しかし結局この国は1年も経たずに崩壊します。その後も自治を求めるクルド人の運動が度々起こっているというのが現実です。ではシリアはどうでしょうか。シリアのクルド人もどちらかといえば社会に同化していると言えるでしょう。例えばシリアで最も長い歴史を持つ政党で1960年代以来連立与党として政治に参加しているシリア共産党があります。この政党は当初、執行部メンバーを始めとするメンバーのほぼ全員がクルド人です。

シリア人の歴史観の中でも十字軍の支配からアラブ地域を解放したクルド人のサラディンが英雄として位置付けられています。その末裔だと考える多くの人たちがクルド人であることに誇りを持ち、なおかつアラビア語を話してシリア社会に同化しています。ただ完全に差別がないというわけではありません。シリアは1946年にフランスの委任統治を経て独立しました。独立後は軍事クーデターや思想の違いで争いも度々起こっています。こうした中で権力を振りかざした政治が行われるようになり、社会の監視や統制が強まりました。同時にアラブ民族主義も高まりました。これは統一されたアラブを目指し、アラブ人のための世界を作ろうという考えです。クルド人はアラブ人ではありません。だから嫌がらせや弾圧の対象になります。クルド語のレコードが廃棄されたり、クルド人を狙った焼き打ち事件が起こるようになります。地域によってはクルド人が国民ではないと判断され国籍を剥奪されたケースもあります。彼らは国内での移動の自由、選挙権、私有財産、公務員就労資格、公立学校入学資格などを奪われました。現在は外国人と扱われる人たちが20万人、無戸籍者である人が約8万人もいるほどです。

イラクにおけるクルド人の自治

次に見るのはイラクです。実はイラクにはクルド人による事実上の国と呼ばれるものがあります。イラクは1920年にイギリスの委任統治領として成立しました。イギリスは当時の国際連盟に対してイラク国内のクルド人の存在に配慮するということを約束しました。そのため、初めからクルド人の存在が認められていました。これはイラクにおけるクルド人問題の動きで重要な点です。1960年代初頭から自治を求めて始まったクルド人による武装闘争を経て、1970年にはイラク政府との間で自治の合意が成立しました。しかし、自治区の領域を巡って対立が生じると、クルド人たちの運動は一旦頓挫します。

次にクルド人が動いたのは1980年のイラン・イラク戦争中です。クルド人たちは再び中央政府に対してゲリラ攻撃を展開しました。この

結果がどうなったかというと、政府による化学兵器の使用を含む徹底した弾圧によって抑え込まれてしまいました。ただそれでもクルド人は諦めません。湾岸戦争でイラク側が敗北した時、北部でクルド人が一斉に蜂起しました。この時もイラク軍は軍事力でクルド人を制圧しましたが、ここから事態は動きます。イラク軍の制圧の結果、大量のクルド人難民が周辺国に流れることになったのです。それが結果として国際社会にクルド人問題を知らしめるきっかけになりました。

まもなくしてアメリカを始めとした多国籍軍の保護のもとでイラク北部にクルディスタン地域政府が設けられます。これは事実上の国家とも呼べる存在です。とはいえ正式な国家として認められることはありませんでした。

トルコにおけるクルド人問題

さて、4つの国でクルド人がどのように扱われているかを見てきました。しかし、数ある国の中でも最も大きなクルド人問題を抱えているのがトルコです。トルコには世界各国にいるクルド人のうち半数が住むとされています。先ほどもお話ししましたが、トルコは近代化を進める中でクルド人に同化を迫ってきました。そしてそれに反発するクルド人の中からクルディスタン労働者党(PKK)が生まれています。この組織はトルコにとって最大の脅威であり続けています。トルコ政府とPKKは1984年から30年以上にわたり戦闘を続けてきました。犠牲者は戦闘に巻き込まれた一般人を含め、なんと4万人以上とされています。最近だと2023年10月、トルコの首都アンカラでPKKと繋がりのあるグループのメンバーが自爆攻撃を行ったという報道がありました。これに対抗して、トルコはPKKの20件の標的を空爆で破壊し、多くの過激派を無力化したと発表しています。このように対立が収まる気配はありません。トルコ政府とPKKの和平にはまだまだ時間がかかることでしょう。

クルド人問題の国際的な影響

どの地域でもクルド人に関わる問題が何かしら起きているというのが現状です。これは私たち日本人にとっても他人事ではありません。争いから逃れるためにと難民になっているクルド人がたくさん存在しています。そしてそれが冒頭に取り上げたニュースに繋がるのです。埼玉県蕨市、在日クルド人が住むこの地域を故郷のクルディスタンにかけて「ワラビスタン」と呼ぶ人もいます。現在、ここには約2000人のクルド人が暮らしているとされています。このようにクルド人問題はもはや中東だけの問題ではないのです。

日本における移民政策とクルド人問題

私たちの住む日本でも事実上の移民政策が進められつつあります。だからこそ私たちの住む日本がどうなるのか、どうするべきなのかを真剣に考えなければなりません。あなたはどう思うでしょうか?

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