佐々成政、冬のさらさら峠越え!熱い男の命をかけた信念とは?
今回は息抜きに礫状の人物とその逸話を書いていこうと思う。
情熱的な武将、佐々成政についてご紹介しましょう。佐々成政と言えば、「さらさら峠越え」で有名ですね。1584年、徳川家康に会いに行くため、富山から前人未踏とも言える真冬の北アルプス・立山連峰を無謀にも越えることを敢行しました。一体、なぜ彼はこんな危険なことをしたのでしょうか。その背後には、不器用でありながらも命を懸けて生きる彼の生き様が隠されています。今回は、そんな佐々成政の物語を詳しくご紹介します。
佐々成政について
運命の本能寺の変によって、佐々成政の運命は大きく揺れ動きました。尾張国で漁師の子として生まれた成政は、織田信長に早くから仕え、わずか10人しか選ばれない黒母衣衆と赤母衣衆に選ばれるなど、エリート中のエリートとして活躍しました。また、当時最先端の武器である鉄砲隊の隊長の1人に選ばれ、ライバルの前田利家と共に手柄を競い合いながら出世しました。
成政は、北陸方面の平定を命じられた柴田勝家の与力となり、約3万石を与えられ、後には富山一国を任されるなど、順風満帆な人生を送っていました。しかし、1582年6月の本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げると、成政を含む織田家臣の運命が大きく変わりました。
成政は上杉謙信と交戦中であり、動けない状況でしたが、羽柴秀吉が明智光秀を倒し、織田家の実権を握りました。その後、秀吉は柴田勝家と対決することになり、成政は秀吉につくか勝家につくかの運命の決断を迫られました。最終的に、成政は勝家に味方することを選びました。
しかし、勝家が敗北し、成政は上杉謙信と秀吉に寝返った前田利家に挟撃され、万事休すとなり、やむを得ず秀吉に降伏しました。しかし、成政は心から秀吉に降伏したわけではなく、復讐の機会を窺っていました。
その機会は意外にも早く訪れることとなります。
さらさら峠越え
信長の次男、織田信雄が徳川家康と組んで秀吉と敵対した小牧・長久手の戦いが始まった時、成政は家康方に味方します。やっと嫌いな秀吉を倒すチャンスが来たわけです。この時ばかりは家康が神様に見えたのかもしれません。
富山の成政は、敵に囲まれながらも、前田利家が居城とする末森城を攻めます。
ところが、とんでもない報告が飛び込んできました。救世主であるはずの家康が、秀吉と和睦して戦いをやめたというのです。
実は、秀吉が勝手に秀勝と和睦するという条件を提示したため、家康も戦いの正当性を失い、矛を収めざるを得なかったのです。
敵に囲まれた成政は、このままでは滅亡必至であり、何より天下が秀吉に奪われてしまうことを恐れて、気持ちの収まらない状況でした。そこで成政は、自らが家康を説得しようと考えました。しかし、東は上杉、西は前田と敵に囲まれており、南の浜松にいる家康の元へ向かう道がないことが分かりました。
あるのは、ただ壁のようにそびえる北アルプスの立山連峰だけでした。しかも、この時期は現在の暦で1月であり、山は人の背丈より高い海雪に覆われ、修験者ですら冬には入山しませんでした。
普通ならば諦めてしまうところですが、成政は雪山越えを決断しました。彼が家康を救うために、どれだけ秀吉を嫌っていたかと逆に言いたくなるほどです。
勇敢な決断を下し、さらさら峠を越えることを決行した佐々成政は、家臣に病気を装っていると称し、約50名の家臣団と共に立山に入山しました。夏秋には200名が立山に入り、登山隊を組んで出発しました。弥陀ヶ原から立山温泉に入り、天候の回復を待ち、数人の案内人と共にザラ峠を越え、黒部川を横切り信濃大町に出ると言われています。
現代のアルペンルートとほぼ同じルートを通ったと思われますが、当時はピッケルやアイゼンなどの装備がほとんどありませんでした。途中で木こりの家にたどり着いた際、獣が出たと驚かれるほど過酷な登山で、多くの家臣が途中で投げ出したり転落したりする事故が発生しました。
本来であれば無謀な登山でしたが、戦国武将である佐々成政は前人未到の真冬の北アルプスを制覇しました。もちろん、これは秘密の登山であり、その偉業は闇に葬られました。
家康も成政を歓待しましたが、もう一度挙兵を求める成政の要望には応じませんでした。成政はその後も他の大名に協力を求めましたが、結局叶いませんでした。成政の失望感は計り知れません。どんなに努力しても報われない気持ちは、現代でも共感できることでしょう。世の中は思い通りにはならないものです。
その後、成政は過酷な運命に立ち向かいました。秀吉に降伏せざるを得なくなり、命は許されましたが、領地はほとんど召し上げられ、秀吉の御伽衆(話し相手)となりました。
利家は、「そんな惨めな成政を見て命が惜しいのか」と嘲りましたが、成政の秀吉に対する敵意は衰えていませんでした。いつか必ず復讐してやるという思いを支えに生きていたのです。
そして、家臣から提案された「上杉謙信を見習っては?」、成政は「自分は越中平定に終わらせず、秀吉を倒して天下を取る」と宣言したと伝えられています。
そんな成政に挽回のチャンスが訪れました。
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九州平定で功績を挙げた佐々成政は、秀吉から肥後の国を与えられました。実は、肥後の国には目立った領主がおらず、国人たちが群雄割拠し、統治が困難な土地でした。秀吉は成政に対し、数年間は検地を行わないよう指示していました。しかし、再び挙兵を狙う成政は、国を富ませたいと願い、強引に検地を実施しました。
その結果、国人たちから大きな反発を受け、事態は泥沼化し、近隣の大名に助けを求めることになりました。この失政を咎められた成政の処分は切腹。
こうして、成政は大嫌いだった秀吉によって死に追いやられました。秀吉がわざと肥後の国を与えたのかもしれませんが、成政が越中一向一揆や富山で手腕を発揮したことから、秀吉は成政の能力を評価していたとされています。
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成政の運命について皆さんはどう思うでしょうか。単なる不運だと思われるかもしれませんが、実は成政は見識と博識に優れた人物でした。
若い頃、学者らから古今の史書や兵法を学びました。信長に対して、「信長公に属さない国があるのは、徳が足りないからです」と発言し、信長を喜ばせました。怖いとされる信長でしたが、成政の勇気には感心しました。その後、信長と成政は、真実を語り合い、信長は成政の博学ぶりに驚嘆したと言われています。
富山を治めていた佐々成政は、領民が川の氾濫に悩んでいることを知り、川の整備に取り組みました。常願寺川沿いでは、地域ごとに堤防を作り、他の地域の堤防を切ることで争いが絶えなかったため、成政は自ら指揮を執り、沿岸全住民のための堤防「サッサ堤」を築きました。これにより、住民たちは大いに感謝しました。この難工事は、成政のリーダーシップと領民への思いがなければ実現できなかったもので、善政を敷いた領主・成政の姿が見て取れます。
成政は、あれだけ毛嫌いしていた秀吉にも高く評価されました。
後に蒲生氏郷に「名に聞こえる成政の馬印」として成政の三階菅笠の馬印を授けています。武勇もあり博識で信長にも信頼されていた成政。もっと器用に生きれなかったのだろうか?
不器用に信念を貫き、信長から天下を奪った秀吉を許さなかった成政。そんな生き方に憧れを抱くのは私だけでしょうか?
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成政にまつわる逸話を2つご紹介します。
一つ目は、成政がサラサラ峠から帰国する途中で待ち受けていた驚くべき話です。成政が寵愛していた側室の小百合が、家臣と密通していたとされました。
実際には、他の側室が嫉妬してでっち上げた話でしたが、成政はこれを信じて2人を処刑しました。
小百合を吊るして惨殺したと言われ、彼女は死の間際「佐々家の家名を断絶させる !」と叫んだとか。 成政の切腹もさゆりの祟りなのかもしれませんね。
後に神通川のあたりに女の首のようなを鬼火が現れます 。雨風のない日にも小百合と呼べばこのぶらり鬼火が現れたと言われています。
もう一つの逸話は、成政がさらさら峠を越えた際、軍資金を隠したという話です。
軍資金は百万両であり、49の壺に分けて埋められたとされています。富山県に残る歌が、隠された軍資金のありかを示す暗号だと言われています。
『朝日差し、夕日が輝く鍬崎に7つ結び、七つ結び目があり、黄金いっぱい光り輝く』と謳われています。隠された軍資金のありかを示す候補地として、鍬崎山や鉢木岳などが挙げられています。
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佐々成政は、武勇と博識を兼ね備えた人物であり、領民のために尽力したことが伝わってきます。彼の人生は、要領よく生きることを望まず、信念を貫く姿勢が印象的でした。
また、成政にまつわる逸話も多く、その一部は怪奇現象や隠された軍資金といった興味深いものがあります。このような成政の物語は、時代を超えて語り継がれています。
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